16.お嬢様は覚醒する(1)
川から大量に這い出てきた黒い物体は、道を埋めつつ、ズルズルと王都の中心へ向かって動く。
「……そっちは……別に王宮は良いんだが、神殿は困るなぁ」
後を追いつつ、ひとりごちるキルケ。帝国から派遣されている世話係や技師たちの拠点は、神殿である。
技師たちはそれぞれの持ち場で寝泊まりすることも多いが、世話係であるキルケとアルフェリウスはこちらで暮らしているのだ。
そういえば鉱山の方はどうなっているかな、とちらりと思う。
あちらは王都から遠いため、神官がしばしば様子を見に行ってくれていたはずだ。何かあれば知らせる、と言われたが、土鬼が大量発生して以来は平和に行っているのだろう。
「今一番の問題は……どーみてもコレだよな」
そう、なんとかしなければ、今夜寝る場所が、最近、聞いたこともない帝国貴族の姫様に変身して値上げされたセン姐さんの部屋になってしまう。
そして生真面目で誇り高いアルフェリウスは、きっと野宿だろう。
それに工場の連中への毛布も手配できなければ、困る。
などと、ツラツラと考えていて、ふと気づいた。
キルケと並び、同じく、黒いズルズルを追跡する存在。
いつから一緒だったのだろう?
頭を悩ませても答えは出ず、仕方なく、挨拶をする。
「やぁ……あんたも、コレが気になるのか?」
「…………」
黙って湿った鼻を押し付けられる。
「人の言葉がわかるか?」
思わず手を伸ばして頭を撫でると、白い冬毛のフカフカとした感触が手に心地よい。
狼といえば帝国では、家畜を襲う悪魔として警戒されるものだったが……
(お供えが足りないのよ)
出会ったばかりの頃エイレンに言われたな、と改めて思い出す。
帝国と聖王国では、同じように見えるものでも在り方が異なることがしばしばあった。
それらは、善悪ではなく、そうなのだ、としか言い様のないものである。
つまりこの白い狼の存在も、そのようなものなのだろう。
「あんたも、王都を守りたいんだな」
確認すると、狼はパタリと太い尻尾を振ってキルケに身をすり寄せた。
「乗ってもいいのか?……おわっ」
まさかな、と思いつつ尋ねているうちに、いきなり股をくぐられた。
強引である。
「ちょっと待てっ……!」
キルケの制止などその大きな耳には全く入っていない様子で、狼は走り出した。
全速力。
左右の景色がどんどんと後方に流れていく。
上を容赦なく踏まれた黒い物体が、動きを止め、土に滲むようにして消えていく。
やがて、王都中心部に着いたキルケと狼が目にしたものは。
黒い物体に覆われて崩れていく王宮と神殿、逃げ惑う人々。そして。
「だから……それちょっと急すぎるから!」
「何言ってるの齢千年越しが今さら!」
この状況にも関わらず、なぜだか呑気に言い争っているカップルの姿だった。
(女の方は、確かアリーファ、だったな)
キルケは頭の中の記憶を探る。帝国でエイレンの友人として顔を合わせたことがあったはずだ。
(さて、男の方は……)
出てこない。知らないのだな、と単純に結論付けた時、2人が狼とキルケに気づいた。
「わーっ! 白さん! それに、吟遊詩人さん!」
キルケが狼の背から降りるのと入れ違いに、駆け寄って狼の首の毛に顔を埋めるアリーファ。
「覚えていてくれて何よりです、お嬢さん」
おどけてキルケが挨拶をすれば、男の方がイヤそうに顔をしかめる。
「お前……見逃してやったのに、また、ノコノコと」
どうやら男は、以前にキルケが聖王国から逃げるように帝国へ戻ったことを、知っているらしかった。
「神殿か、王宮の関係の方ですか?」
「……。ま、そんなところだ」
「ハンスさんは神様!」 アリーファが狼の首から顔を上げて、遮った。
「それで、もうすぐ私と結婚します!」
「それはおめでとうございます」
神様、とは随分なノロケだなおい、などと思いつつ、吟遊詩人の営業スマイルで祝うキルケの後ろで、王宮がまた少し、傾いた。
「しかし……こんな時でなくても良いのでは?」
「ほらみろ」 ハンスさんと呼ばれた男が、ほっとしたような顔をする。
「誰がきいたって、もっと落ち着いてからで良い、というだろ?」
「今!」 頑固に主張する、アリーファ。
「だって、できることはするって決めたんだもの! 早くしなきゃ!」
「俺は国のためとかそんなことのために、アリーファを選んだわけじゃない。犠牲にしたいわけじゃないんだ」
ゆっくりと宥めるように言い聞かせる、ハンスさん。
「私だって……! 犠牲とかじゃないんだから!」
「だってお前さっき 『結婚して私が新たに結界の核になれば、今ある問題1コは解決』 とか言っただろ! そんなことを気安く決めていいと思ってるのか!」
「いいです! だって……」
とりあえず、話がよく見えないんだが、と思いつつ2人の口論を拝聴するキルケ。
大人しく座って、パタン、と尻尾を振る狼の背を時々撫でるお陰で、心は穏やかである。
そして最後にアリーファは、やっとキルケにも意味のわかることを言ったのだった。
「どんな理由があっても国のためでも、浮気ダメだからね! 絶対!」




