15.お嬢様は溺れている(1)
聖王国の王都郊外。
広い川原には、新しい木造の住居と、石の土台がぼちぼちと並び、一部に白い煉瓦の壁が立ちはじめている。
帝国のゆったりした運河と比べれば、かなり速い川の流れ。
その水面に、吟遊詩人の歌声とリュートの音が響きわたる。
『風よ吹け、神の守れる国、聖王国の古き都に
語っておくれ、その男の物語を
気高き黄金の姫に恋をして
恋ゆえに滅んでいった
愚かだと笑わずに
聞いておくれ、その話を……』
普段のダンスが乗りやすいリズミカルな曲とは違い、語りかけるような歌い方である。
キルケの歌に乗り踊るのが常になっているハルサも、人足たちに混じって腰を下ろした。
歌はありがちな恋物語のようでありながら、帝国に伝わる昔話のようには、容易く成就したりしない。
男が捕らえられるシーンになると、聴衆は息を呑んで聞き入った。
姫君との別れ・処刑のシーンに至っては、すすり泣く声があちこちから上がる。
悲しみに染まりつつも熱が入る歌声。
それを聴くハルサは、いつしか心臓の上に握りこぶしをぎゅっと押し当てていた。
やがて、涙がつっと、その頬を伝い出す。
歌に描かれた、捕らえられ処刑される男の姿が、かつて帝国で内乱の果てに処刑された家族と重なる。
お互いにどこかよそよそしく、微妙な関係だった父、気の優しい異母弟に、結婚を間近に控えていた美しい異母妹。
……状況もその心情も全く違うだろうに。
そうは思うが、涙は止まらなかった。
(泣きたかったのか、私は)
彼らの死は、悼むことができなかったと同時に、保身に走り逃げた自分には悼む資格が無い、と思い込んできたことでもあった。
時が経ち、生き残ってきた者が次々と亡くなるようになると、それに 「今更どうしようもない」 という諦念も加わった。
その裏に押し込めて気づかなかった想いがあったのだ、と初めて知る。
(父上、エンリクス、ユリア……) 声には出さず、次々と失った家族や知人の名を呼ぶ。
(死んでほしくなど、なかった。ずっと、悲しかった)
静かなリュートの音色と語りに引き出されるように、涙は次々と溢れてくる……
ふと耳にざわめきが戻り、気付けば曲は終わって、目の前ではリュートを背負ったキルケがまじまじとこちらを見ていた。
「よぉ」 どこか照れ臭そうに手を挙げる吟遊詩人。
「踊れる歌じゃなくて、済まなかったな」
「なに。たまには、静かに聞くのも悪くない」 ハルサは鼻をすすり、にやりとしてみせる。
「君が聖王国の歌を歌うのは初めてだな。やっと馴染んだのかい?」
「そうだな。しばらくこっちに暮らすうち、嫌なことばかりでもなかったと思い直した、ってところかな」
そうか、とハルサはうなずく。
「良かったな」
「まぁ、そうだな」 ひょい、と肩をすくめておどけた表情をつくるキルケ。
その表情が、不意に怪訝なものに変わった。
「あれ……なんだ!?」
川に注がれた眼差しが、みるみるうちに鋭くなる。
「どうした?」 振り返ったハルサも、息を呑んだ。
川から、次々と這い上がってくる、でろでろとした黒い物体。
水鬼の幼体、と言われているモノだが、キルケもハルサもそれを知らない。
ただ、何とはなしにおぞましさを感じるだけである。
ずずっ、ずずずっ……
黒い何かは、てろんとした鈍い光沢を放ちつつ列をなすと、見掛けにはよらぬスピードで這いずり、彼らの方へと向かってきた。
「なんなんだ!?」 「うぇっ、気持ち悪っ……!」
気付いた人足たちもまた、口々に騒ぎ出す。
キルケは顔をしかめつつ、懐から出したナイフをソレに向かって投げつけた。
小さな刃は鋭く飛び、這いずる黒いモノの1つに突き立つ……が、ソレは全く動きを止めなかった。
背にあたると思われる部分に刺さったナイフが、ゆっくりと吐き出され、軽い音を立てて地面に落ちる。
その上を、無数の黒いモノたちがズルズルと通り過ぎていく―――
「おい、守れ! 工場! 住居!」
ハッと気付いたようにハルサが声を上げた。
でろでろと蠢く、黒いモノたちからは特段の悪意を感じたりはしない。だが、その無表情な動きに、却って危機感が煽られる。
「土台はいい! 壁を守れ!」
もう1人の建築技師、リヴェリスの指示に従って人足たちが動きはじめた。
だが。
「「「……あれ……?」」」
黒いモノたちがどうやら、新しい住居や建設しかけた工場に興味がないようだ、と悟るのに、さほど時間はかからなかった。
彼らはある意味お行儀よく列をなし、ずるずると這いつつ、川原を横切っていく。
「どこへ行く気だ……?」
そのでろでろとした背中を見送っていた人足の1人が戸惑い気味に呟いた。
「さぁね」
吟遊詩人が肩をすくめて呟き返せば、周囲からは安堵のためいきが漏れる。
気味の悪い物体がどちらへ向かおうと、自らの行ってきた仕事や住居に関係なければ、まずはひと安心、といったところだろうか。
「では、また煉瓦作りに戻るか」 皆の気持ちを切り替えるためか、ハルサが殊更に明るい声を出す。
「とりあえずは壁が無事で良かった」 と、リヴェリス。
「時間が押してしまったな。急いで取りかかるぞ」
休憩前の持ち場は覚えているな、と冗談半分の確認に、人足の間から小さな笑い声が起こった。
「では私はそろそろ行くよ」 キルケもまた、リュートを担ぎなおして手を振る。
「毛布の支給はなるべく早めに、頼んでおこう」
「おう」 「頼むな」
何しろ川原の風はなかなか寒くて、などと口々に言う同僚にもう1度手を振り、今はかなり離れた場所で動いている黒い物体を、追う。
(どうやら、行き先が同じようだな)
面倒なことにならなければいいが、とひとりごちつつ、キルケが向かう先は。
聖王国建国以来、千年の長きに渡り変わることのなかった、古き都。
―――王都、である。




