14.お嬢様は囚われる(2)
中ほどに軽い変態描写があります。
苦手な方はとばしてください。
声にならない声が、石の壁にそっとぶつかっては跳ね返り、耳には聞こえないほどのざわめきが狭い空間に満ちていく。
それが潮のように引き、真の静寂が耳を打つ。
「……はぁっ……」
その静かさに耐えきれぬ、といった様子で、リクウは大仰なため息を吐く。
彼にしては、珍しいことだった。
精霊魔術師はどんなに大変でも涼しい顔で仕事をこなさなければならない。
仕事に失敗するのは論外だとしても、精霊魔術の大半が、もともと『無いより役に立つ(かも)』という意義しかない技であったり、する。
はったりかまして顧客の信用を得ることが、大切なのだ。
そうして訓練しているうちに、どんな時でも平穏な表情と態度を保てるようになってしまった。
はずだった。
が。
今この神殿の塔最上階の閉ざされた部屋にいるのは、彼と眠り続ける女だけである。
そのせいか、もう1つの原因のせいか、これまで意識せずに取ってきた自制の態度は剥がれ落ちかけている、と言っても良かった。
もう1つの原因。
それは、不可視の蝶の翅。
女の背で虹色の光彩を放って震え、リクウ自身の背にもついているだろう、霊鬼に憑かれた証である。
その翅を、霊鬼を、エイレンから取り去ろうと試み続けては失敗しているのだ。
未明にこの部屋に収容されてから何時間が経っただろうか。
明かり取りの窓からはすでに白い日射しが入り込み、小さな部屋の隅に溜まった湿気をより際立たせている。
「僕は、いいんですよ」ブツブツとぼやく声をまたしても、石の壁が反響する。
「何匹霊鬼が憑いて、気が狂おうと」
遠い昔に情を通わせた女を、何もできずに見送って以来、人生は終わらない夢の中を歩いているのとそう変わらなかった。
亡くした女と同じような人間を出さないために修行に励み、精霊魔術師として生きてきて、多くの人の役に立ち、それなりの感謝と尊敬も受けてきた。
けれどもそれは、執着するほどの人生では、ない。
だが、とリクウは、眠り続けるエイレンを見る。
「君は違いますよね?」
自分とは違う。
エイレンには、彼女自身が選んだ、なすべきことが残っているではないか。
何を賭けても意志を通そうとする強さと美しさを、霊鬼ごときが終わらせて良いはずがない。
「もう一度……」
ふぅぅ、と彼を知っている者からすればそぐわないため息を吐き、翅の付け根に手を当てる。
よほど深く、エイレンの魂に根差してしまったせいか、誘いかけの言葉は何度試しても効かなかった。
次々と、思いつくままに唱える。
絡まった糸をほどくまじない。
地中に残った根をとりのぞくまじない。
囁くような精霊の言葉の連なりは、だが、不意に伸ばされた手と短い制止によって、遮られた。
「ダメよ」冷たく滑らかな指先が意外な強さでリクウの腕をつかみ、女はゆるやかに半身を起こす。
引き寄せられるように腰を下ろした男の背にもたれ、頭に肩を預けて目を閉じた。
「このままがいいわ」
細身の割にずしりと重い身体。
その重みに湧き上がる愛しいと思う気持ちから逃れられず、リクウは彼女の手に己の手を重ねる。
「なぜですか」
「ずっとここにいたいの」幼子のように素直に告げられる、言葉。
「ここがいちばん、すきよ」
いけない、と思った。
捕まってはいけない。
この娘は、自由にしてやらなければ。
それこそが、自分の望みでもあったはず……そう思おうとリクウはあがいた。
「知っています……ですが」
やっと絞り出した台詞を、耳にあたる柔らかく湿ったものが掻き消す。
まるで目の前にある好物をゆっくり味わっている、とでもいうように。
耳の付け根を、舌が優しく這いずる。
きゅっと、外縁を噛まれれば、見えなくても、その悪戯っ気に満ちた表情が目に浮かぶ。
追い払おうと強く目を閉じれば、その表情はむしろますます生気を持ち、感覚を鋭敏に刺激する。
ああ、と男は思わず呻いた。
舌が耳朶から首筋に降り、薄めの歯が軽く当たって、跡をつけていく。
戯れは永遠に続くように思われた次の瞬間に、ふっと止まった。
唇が名残惜しげに離れ、憎らしいひとことを放つ。
「あなたでなくてもできるわ」
重ねていた手が抜かれ、女は素早く身を翻してリクウの膝にまたがった。
やや前のめり気味に、余分な肉のついていない固めの腿が彼の腿を圧迫する。
「でもあなたがいいの」
リクウの首に腕が強く巻き付く。
まだ強く残る血の匂いに、花のような甘い香りがふっと混じって、鼻腔を刺した。
待ちきれないと、もっと欲しいと、貪るように口づけられる。
重なる唇は、どちらから求めたものだろうか。
微かだが、次第に高まる息遣いはどちらのものであっただろうか。
その間に、逃げないで、と女が囁く。
あなた以外は要らないから。
逃れようがない、と男は目を閉じ、すみません、と謝った。
君を自由にしてやりたかったのに。
声にならない言葉の代わりに、より深く、互いに溺れる。
―――何も見えず、何も聞こえない―――
※※※※※
「あーあ……重い……」
ついたてを両腕で抱えた神官が、ブツブツとひとりごちながら、神殿の塔へと向かって歩く。
『一の巫女』の輿入れが意外な形で破られ、『一の巫女』はなぜか精霊魔術師と共に閉じ込められることになってしまった。
それはいいが。
(排泄をガン見されるくらいで恥じ入るなよ……いや、やっぱりイヤか)
精霊魔術師に頼まれついたてを探しだすのに時間をとられ、時刻はもう昼前である。
事件のせいで昨晩から寝ていない。眠い。
しかも、ついたてはけっこう重く大きく、運びにくかった。
これを持ってまた、塔の長い階段を登るのかと思えば、ため息の1つや2つ出ようと言うものだ。
「はぁーぁ……あ!?」
しかしそのため息は、途中で驚きの声に変わる。
立ちすくむ神官の目の前にある塔は。
白い壁も、小さな窓も、入り口の重い戸も。
全てを、急速に伸びた黒い蔦が覆い被さるように、封じていた。




