12.お嬢様は虫に喰われる(1)
夜空の片隅に、今にも消えそうな月が昇る頃。
王都神殿は、声にならない無数の音とたいまつの灯に彩られていた。
夜半もだいぶ過ぎているというのに、たいまつの灯は消える気配もなく、あかあかと石の建物を照らし、神官たちの吐く息を白く浮かび上がらせる。
神官たちの静かな足音と、腰に佩いた剣が時折ガチャガチャと立てる音を、耳の奥にざわざわと残しつつ、オウドは長く暗い廊下を渡っていた。
同じような扉がいくつも並ぶ、再奥の1つを軽く叩く。
「『一の巫女』様、お時間です」
扉を開ければ、そこには、剥き出しの石の壁に囲まれ、細身の剣を手にして佇む女性。
殺気が、かすかに匂う。
(随分と激しい練習をしていたようだな)
オウドはそれには触れず、口を開いた。
「輿の準備ができました」淡々と告げれば、『一の巫女』は「あらそう」と簡単に応じる。
「では行きましょう」
剣を腰に佩そうとするのを、オウドは押し止めた。
「必要ありません。あなたは我々が守ります」
その剣が先の春の大祭で護衛を傷付け、彼女を逃がしたことから、側室となる巫女の帯剣は許可されなくなったのだ。
警備の目的で配置される神官の数は、当時とは比較にならないほど多い。
(『守るのではなく閉じ込めるためでしょう?』とか言われそうだ)とオウドは身構えたが、『一の巫女』は黙ってうなずいただけだった。
剣を大切そうに両手に抱き、ゆっくりと壁に掛ける。
剣技が彼女の誇りであることを、オウドは知っていた。
持って生まれた才にも血筋にも関係なく、ただただ努力して身につけた技術。
だが、それも今宵限りで必要なくなる。
(良くは思っていないだろうな)
気遣いつつそっと彼女の顔を窺い、オウドは息を呑んだ。
以前『春の大祭』の折りの、人形のように慎ましやかな表情は、そこにはない。
まっすぐに前に向けられる、蜜色の瞳。
「輿は不要よ」伸びやかに言い放つ唇には、不敵なまでの微笑が刷かれている。
「聖堂まではすぐでしょう。歩いて行くわ」
「輿に乗るのが慣わしですので」
「慣わし?」蜜色の瞳が、オウドを捕らえる。
「わたくしに、そのようなもの意味があると?」
「あなたにはなくても、我々にはあります」
その真意の底が知れないような、にこやかな表情でエイレンは嫌味を叩き出した。
「わたくしが側室になると決まった途端に口調を改める方々ですものね」
「必要なことですので」
控えめに応えるオウド。
そう、必要なことだ。妹分として可愛がってきた少女と、目の前の女性は違うのだと思うために。
ちっ、とエイレンが舌打ちをした。
「ではけっこうよ」
オウドはほっとして、頭を下げる。
(存外、素直に従ってくれたな)そう思う反面、どこか物足りなくもある。
しかしそうした侘しさに言及するなど、一神官として許されることではなかった。
「こちらです。参りましょう」
背後に気配を感じつつ、オウドは『一の巫女』を先導する。
暗い廊下に蝋燭の灯が揺れ、足音だけが静かに響く。
幼い頃より彼を『兄さん』と呼び慕っていた少女は、やがて美しく成長し、その強い神力を以て『一の巫女』に選ばれた。
そして今宵、月の出とともに神に差し出される。
―――白絹の衣装に包まれた彼女を再び見、再びこの手で送らなければならぬとは―――
オウドは内心でそっと唇を噛みしめた。
神殿の裏口は扉が開けられており、輿はその前に置かれていた。
質素な雰囲気には似合わぬ豪奢なものは、『一の巫女』または国王の側室が聖堂に籠る時にのみ、使われる。
(予想よりも余程、焦っていたのね)
きれいに磨きあげられた輿を眺め、エイレンは再びそう考えた。
それを感じたのは、つい一昨日のこと。
セッカより王都神殿に戻ったその足で挨拶に伺ったエイレンに、神官長は「2日後には義務を果してもらう」と告げたのだ。
その時、初めて尋ねた。
「実の娘を差し出す罪悪感は?」
「かようなつまらぬことを問うとは、全く、すっかりと世間に毒されたな」神官長の答えは、予想通りだった。
「神殿の果たすべき義務は、父子の情に勝る。呪うならばここに生まれたそなた自身を呪うが良い」
わかりました、とエイレンはうなずき、それを父は全てへの肯定ととったのだった。
エイレンは改めて己の全身を見下ろす。
高価な白絹を重ねた衣装に包まれて、捧げ物として輿に載せられ、運ばれる。
その輿もまた、細かな細工を施され、宝石の嵌められた見事なもの。
それは当然のことだった。
他人にも自身にも、当然、と言い聞かせてきたことだった。
しかしこうして現実に目の前にすると、違和感が否めない。
生じた隙を待っていたかのように、身の裡に封じた虫たちが騒ぎ出す。
(お前の望みは何?)
胸の奥で問うてくる声は、複数のようでもありただ1つのようでもある。
(お前の真の望みは何?)
ふん、と彼女は鼻で笑う。
(訊かれずとも、知っているわ)
だが、ただそれだけ。
多くのものを犠牲にしても叶えるべき望みなど、あろうはずがない。
たかだか霊鬼ごときの囁きなどには乗らぬ。
これは押し付けられた道ではなく、選んだ道なのだ。
己の足で、歩いていける。
「輿など要らないわね」
精霊魔術の文言を口の中で唱え、手を挙げて指先に神魔法の力を集中させる。
「何を……」オウドが言いかけた時。
エイレンの手から、鋭い閃光が放たれる。
目の眩むほどの強烈な光が、輿をきらびやかに彩る。
そして。
ぱぁぁぁぁんっ!
一瞬の後、それは、粉々に砕けた。




