11.お嬢様は振り返らない(2)
何も考えず、何も感じず、与えられた役割だけを果たす。
簡単なことのはずだ、とエイレンは思った。
物心ついて以来、そうしてきた。
そうなるように、育てられた。
醸造所に立ち寄って兄に挨拶をした時も、兄の顔が辛そうに歪むのがむしろ不思議である。
(でも、それがわたくしゆえにだと、分かるようにはなったわ)
馬を常歩で進めつつ、エイレンは微笑んだ。
それだけでいいのだ。
これまでに出会った人々から貰った沢山の想いに、返せるものなど持っていない。
だから、役割を果たすことには異存などあるはずもなかった。
「森を出たら、少し急ぎましょう」
ブナの森にさしかかると、ジュドウ―――神殿からの使者の名だ―――はそう言った。
「ええ」
うなずきつつ、馬を止めるエイレン。
「どうされたんですか?」
不思議そうに尋ねるジュドウに、地面を指してみせる。
「ここ、木がたくさん倒れているでしょう?」
「はい」
「精霊魔術の練習をしている時に、失敗して暴走させたのよ」
「『一の巫女』様が?」
「いいえ」ついひと月ほど前のことを思い出して、くすりと笑う。
「失敗しても諦めないことを知っている子は、強いわね。わたくしよりもよほど」
「はぁ……」いまいち『一の巫女』の言いたいことが分からず、ジュドウは曖昧な返事をした。
「それが何か?」
「何でもないわ。少し思い出しただけ」
それを思い出すとき胸の奥でさざめく何かを『懐かしい』というのだろう。
近い将来、側室という名のただの道具になるとしても、幾多の想いと記憶は消えない。
(どこにいて、何をしていても、きっとわたくし自身でいられるわ)
そのために苦しむことがあったとしても、精一杯、もがこうと思える。
息が尽きる瞬間まで、息をしていようと思える。
―――何も考えず、何も感じず。
これから果たすべき役割を考えるなら、そちらの方がラクだろう。
しかし、それでは死んでいるのと変わらない。ひとたび生きることを知ってしまえば、戻りようがないのだ―――
小川のせせらぎを聞きつつ森の中をゆっくりと馬を進めていると、不意に低い唸り声がした。
「狼だ……」
「里神の眷族よ。ご存知でしょう?」
怯えるジュドウに、落ち着き払ってエイレンは教える。
しかし、目の前に現れた光景に小さく息を呑んだ。
狼が、人を襲っている。
跳躍に合わせて流れるように銀色の長い毛が揺れる。
男は腕を振り回し応戦するが、体格の差、力の差がそれを許さない。
あっという間に、跳びかかられ、組伏せられてしまう。
里神と呼ばれる狼は、普段人を襲うことなどない。
……狂ってしまったのか?
最近の霊鬼騒ぎのせいもあり、何かとそう考えがちだが、そうではない、とすぐに打ち消す。
狼のアイスブルーの瞳に、冷徹な意思が感じられるからだ。
(狂っているとしたら、むしろ、あちらね)
言葉を無くしてしまうのは、霊鬼に囚われた者の特徴だ。
今、狼に乗られて倒れている男も同じだった。
手に握りしめているのは火の消えたたいまつ。
(森を燃やすつもりだったのかしら)
森は地元の民の大切な生活基盤であり、燃やすことは重罪である。
それも分からなくなっていたとしたら、やはり……
男がかすかに動き、人には見えない背中の翅が震えた。
それに反応するかのように唸り声をあげた狼。
男の首元に向かって牙を剥く。
「おやめ」とっさに制止し、エイレンは馬を降りた。
「そのような者の血で汚れる必要はない」
近寄り、牙にわずかについた血を袖で拭ってやると、狼は大人しく男から身を離した。
「いい子ね」
フワフワとした毛で覆われた頭を撫でる。
「『一の巫女』様、どいて下さい」
同じく馬を降りたジュドウが、剣を抜く。
ただの神官であるジュドウには、男に宿る霊鬼の姿は見えぬはずだ。
しかし、その狂気ははっきりと分かったのであろう。
粛清すべき対象である、と。
上段に構えられた刃を、エイレンはそっと押し止めた。
「斬ってはなりません」
「しかし……」
「わたくしがしましょう」
地面に転がる男を蹴り上げる。
気絶したのを確かめ、首元に手をあて血止めのまじないを口の中で呟いた。
鋭い牙で穿たれた穴から流れ出していた血が止まり、黒く乾いて傷を塞ぐ。
そのまま続けて、精霊魔術の文言で低く囁きかける。
人の欲望を餌とし、新たな欲望と狂気を生み出すその蝶に。
『おいで……お前の棲み処はここだよ……』
誘う、呼ぶ。
これまでこうして、何匹の霊鬼を裡に閉じ込めたのか……もう、数えきれない。
周囲で心配される度に大丈夫、と言い切ってきた。
事実、影響は何も出ていない、と感じる。それとも、己がそう思っているだけなのか。
(でも、わたくしが狂ったとしても何も問題はないはず)
与えられた役割があり、それさえ果たせば良いのだ。
裡に何を秘め、どう狂おうと誰にも関係ないではないか。
(役割があるとは有難いこと)
再び、くすり、と笑った時、不可視の蝶はふわりと男を離れ、エイレンの胸にとまった。




