9.お嬢様は願っている(2)
夜に侵された水は氷のように冷たく、容赦なく手足を縛ろうとする。
痛い。
重く纏いつくスカートも、邪魔だ。
(脱いでから飛び込めば良かったわ!)
アナスタシアは後悔しつつ、脚になんとかスカートを巻きつけて水を蹴る。
軽い腕輪は、おそらくはまだ水底に落ちていないはず。
それらしい物が引っかからないかと、重い腕をなんとか動かしてみる。
しかし、手は虚しく黒い水を掻くばかり。
無茶だった、と改めて思った。
(でも、失くしたくない……!)
最初は身分に対する敬愛だったかもしれない。けれど、それでも嬉しかった。
ガラス玉に糸を通しただけの腕輪は、みすぼらしい小屋の中に、大切にしまいこまれていた。
それが一番の宝物だと言いながら、少年は少し恥ずかしそうに手首につけてくれた。
その瞬間からそれは、アナスタシアにとっても一番の宝物になったのだ。
(絶対に見つけるわ!)
けれどもう、息が苦しい。
水面まで上がらなければ、と再び両脚で水を蹴る……動かない。
(まずいっ!)
手も脚も、冷えきっていたのに気付かなかった。
身体の全部が重くて、動くことができない。
(……!どうしよう……!)
もがこうとすればするほど、水底へと沈んでいってしまう。
(助けて!)
上げようとした声は、泡になって消えていくだけだ。
意識が、次第に黒い水に呑まれていく。
(ティルス……)
呼び掛けた時、視界の端で何かが微かに光った。
必死で手を伸ばし、それを掴む。
(……あったわ……!)
どんな贈り物よりも温かく嬉しい、奇跡。
アナスタシアは薄れゆく意識の中で微笑んだ。
(大丈夫。これさえあれば、息ができる)
※※※※※
「状況は?」
ぼそぼそと半泣きになっている少年に尋ねるのは、フラーミニウス家の次男、ルーカスだ。
聖王国からの客人護衛の任を解かれた後は再び南都の守備隊に戻り、現在は微妙に昇進して隊長補佐官になっている。
「護衛兵の中で泳げる人に順番に潜ってもらっているのですが、まだ」
「大丈夫だ」ルーカスはおろおろとしている少年の頭をぽんぽんと叩き、守備隊のマント、チュニック、シャツを順に脱いでいく。
「私も潜ろう」
『濁り河』は運河であり、その傍で生まれ育った南都の民でも泳ぐという発想はない。
守備隊の中でも泳げる者は限られているのだ。
「すみません、お願いします!」
深々と頭を下げる少年に「ああ」と短く答える。
「泳げない者は水面を探せ」指示を出して、ティルスにもう1度「大丈夫だ」と告げた。
守備隊は夜警の者以外総動員しており、桟橋は無数の松明で昼のような明るさだ。
小舟もあるだけ、出している。
「必ず見つかる。焚き火を大きくしておけ。もう1つおこしても良い」
ティルスが頷くのを確認して、棒を手に持ち、暗い水面にそろそろと足をおろす。
水の冷たさに、身体が勝手にすくむ。
(海では、ここまで冷たいとは思わなかったな)
冬が近づいたせいか、それとも……と一瞬目を閉ざし、頭を振ると、ざぶりと潜り込んだ。
凍りつく手足を細かく動かしつつ、目を凝らし、水底を棒で探る。
松明の火が届かない水底は黒く、あらゆるものを飲み込んでしまうかのようだ。
(早く見つけてやらなければ)
焦る気持ちを抑え、少しずつ場所を移動する。
次こそは、と念じつつ目をこらしては棒で探っているうち、腰につけた命綱に合図が送られた。
(見つかったか!?)
「交代です!」
水面に浮上するとティルスが声をかけた。が、交代予定の者は、と見れば、明らかに疲労が激しい。
首を横に振ってみせ、また潜り込む。
少女の小さな身体では、浮いて流されている可能性の方が高いが、それでも見つかるまでやめる訳にはいかない。
いくらも経たないうちに命綱が引かれる。
「今度こそ上がってください!」
ティルスの声が必死である。
桟橋に戻り、身体を拭いて火にあたる。
「どうぞ」
ホットワインを渡され、ひとくち、ふたくちと飲んでいくうちに、やっと震えが収まった。
「すぐに交代する」
「いいんですか?」
ティルスが気遣わしげに問う。
「かまわない。慣れない者には辛いだろう」
「ルーカス様は慣れておられるんですか?」
「ほかの者よりは、多分な」
震えながら上がってきた兵を「ゆっくり休め」と労り、再び潜る。
兵たちを気遣いつつ、誰よりも必死で皇女の無事を祈っている少年のためにも、早く見つけてやりたい。
しかし繰り返す度に、潜水時間は次第に短くなっていく―――
こうして何度目かの潜水中、不意にまた、命綱が引かれた。
水面に浮上してまず桟橋に目を遣り、それから周囲を見回す。
やや下流の方を探していた舟から、その合図は送られていた。
闇の中で振り回される、松明の灯。
炎が飛ぶように軌跡を描きながら、桟橋へとゆっくり近づいていく。
(生きていたか)
ルーカスはほっと息を吐き、桟橋に向かって泳ぎ始めた。
桟橋に上がると、待ち構えていた兵が布を差し出した。礼を言って身体を拭いつつ、救助された皇女の元へと足早に向かう。
「息はしているか?」「水は吐かせたな?」矢継ぎ早なルーカスの問いに兵はいちいち「はい」と返事を繰り返す。
「外傷は?」
「ありません。ただ……」
「どうした」
「お着替えなどが。替えの服はなんとかなったのですが、その」
「ふむ……」
ルーカスが考え込んだ時、焚き火のそばに着いた。
皇女は地面に敷いた織物の上に寝かされていた。ティルスがその浅黒い手足をさすっている。
少しでも温まるようにという心遣いは分かるものの、水を吸って冷たく肌に貼り付く服が、それ以上に体温を奪っていっているようだ。
「ティルス、お前が着替えさせろ」
この場面ではそれしかないだろう、とした命令に、少年は驚いたように目を見張り、全身を緊張させる。
「そ、それは……」
「ほかの者に任せるか?」
「……わかりました」
決死の表情を浮かべて頷くティルスの頭に、ルーカスは励ますようにぽん、と手を置いたのだった。




