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9.お嬢様は願っている(1)

暖炉の中で時折パチパチとはぜる火に、串に刺したチーズをかざして(あぶ)る。

柔らかな匂いを放ちつつ少しとろけたチーズを固いパンに乗せ 、ヴィントネレは妹に差し出した。


「羊乳のチーズだ」


「ありがとう」澄まして受け取り、アリーファに渡すエイレン。

「どうぞ。コクがあって美味しいわよ」


「あ、ありがとう」受け取ったアリーファがさらにリクウに渡す。

やはり師匠が先だろう。


「ありがとうございます」リクウは一口食べて目を和ませた。

「確かに美味しいですね。甘味があって濃いが、癖がありません」


「……君のために入手したのではないのだが」


「わかっていますよ」苛立ちを押さえつつ次のチーズを(あぶ)るヴィントネレに、のんびりとリクウが応じる。

「妹さんのお相伴に預り、感謝しています」


夕食のテーブルに並ぶのは、パンと、醸造所で造る山羊のチーズ数種類、ドライフルーツとクルミ。

豆のスープには干し肉が浮いているし、ワインは上級のものだ。


つまりは例年よりあからさまに豪華なのである。

また、酒造責任者が同席するなど、リクウの記憶する限り初めてのことだった。


「……兄上。例年はどのような待遇を?」

渡されたチーズのせパンを再びアリーファに回しつつ、エイレンが尋ねた。


ちっ、と舌打ちをして三度チーズを(あぶ)るヴィントネレ。


「……普通だ」


「わたくしこの3日間というもの朝から晩までぶどうの樹にまじないをかけているのですけれど……なかなか大変な作業でしてよ?」


「来年からもお前が来ればこの程度は用意させるが?」


遠回しにケチくさい真似はよせ、と言われても、堂々としたものである。


「それはお約束できないわね」エイレンは銀の杯を揺らした。

透き通った赤煉瓦の色が暖炉の火を受けてゆらゆらと縁に映り、新しいワインの、すみれの花のような香りがかすかに立ち上る。


「来年早々に姉上の子が産まれ、春の大祭には帝国の姫が嫁いでくるわ。その頃までには今の状況が落ち着いていると良いのだけれど」


「ファーレンの子が生まれれば、ファーレンが義務を果たせるではないか」


「姉上はお嫌だそうよ」


「お前ファーレンに甘すぎるな」ヴィントネレがため息をついた。

「神殿から出た側室としての義務も果たさず、正妃を差し置いて子を成すなど、あり得ぬ」


「そのようなことをおっしゃるなら、一生嫌いになるわよ兄上」ぴしゃりと言って、エイレンは杯を口に運ぶ。


「なぜ神殿の女は必ず、側室にならなければならないのかしら。この制度ができてから今まで、誰も考えてこなかったわ。

国のため、人々のため……大勢の正義に安心して、誰もがそれを当然だと信じてきたでしょう?兄上も、父上も」


友人の放つ語気の鋭さに、アリーファはかすかに身震いした。

何も言えずに黙ってパンをかじる。


神殿の『一の巫女』はやがて側室になる。

側室入りの儀は、聖王国の民にとっては祭りと共に行われるめでたい儀式だ。


アリーファもそう信じてきた。

その裏に何が隠されているか、など、考えたこともなかった。


エイレンはさらに続ける。


「姉上は慣習に逆らうだけの頭はないけれど、心はあるのよ。わかるでしょう?」


「しかし……」


反論するヴィントネレの顔を、リクウは山羊のチーズを口に運びつつ、そっと観察した。


どうやらエイレンの兄は、もう1人の妹に対しては明らかに、良い感情を持っていないようだ。


「ファーレンは、ずるいではないか。いつも適当に手を抜き、好きなことしかせずに、それでいて愛されている」


「そうね」

クスッとエイレンが笑う。


「お前は努力を怠ったことがないのに、責務はお前にばかりかかる。ずるいではないか」


「それが姉上の闘い方なのよ、兄上」


「だめだ、認められん」

ヴィントネレが首を横に振る。

その前にある晩餐は手付かずのままだった。


「わたくしは、認めるわ」エイレンが再びワインを口に含んだ。


「何度も申し上げているでしょう?姉上は間違ってはいないわ。誰かが辛い思いをするなら、慣習など破られた方が良いのよ」


「私とて、何度も言っているだろう?」対するヴィントネレも譲らない。


頑固なところがソックリ、とひそかに思うアリーファとリクウである。


「私はお前が可愛い。はっきり言って、他はどうでもいい」


「あら、ありがとう」鈴を振るような笑い声が、あたりに響いた。

「でも兄上は、1つ誤解されているわ」


「なんだ?」


「このわたくしが、たかだか2人喰う程度でどうこう思うとでも?」


2人。すなわち神様と国王である。


「いやエイレン、あなたは思わなくても私が思うから!」ついツッコミを入れるアリーファ。

こと神様(ハンスさん)に関しては、何と言われてどんなに悄気(しょげ)ても、やはり譲れない。


「師匠だって思うよね!?」


「いえ……」


言葉を濁すリクウに、少しばかり傷付いた眼差しを向け、アリーファはガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。


「おとなって不潔っ!」


言い捨てて、走り去る。


その背を静かに見送り、ヴィントネレは口を開いた。


「私も、思うぞ。ずるい女は嫌いだ。ファーレンが責務を果たせば良いだけのことだ」


「最初に逃げたのはわたくしよ」残り少ない杯を空け、エイレンは真っ直ぐに兄を見る。

「姉上が責務を果たすなら、わたくしがずるい人間になるのよ?」


「それでもいい」


「おっしゃっていることがメチャクチャね、兄上。でもね、もっと良いことを教えて差し上げましょうか」細い腕がヴィントネレの首に絡みつき、クスクスと笑う唇がその耳につけられる。


「神殿の女が愛する人と結ばれて子を成すことを、ずるいなどと誰も言わなくなれば、それが、いちばん良いでしょう?

神殿だけではないわね。たとえば、これから生まれる姉上の子。

それに、帝国の姫君も」


歌うように言うエイレンの脳裏には、風を連れて駆け抜けるのが最も似合う、浅黒い肌の少女が浮かんでいた―――




※※※※※




帝国の一大商業都市、南都。

その繁栄を築いてきたのは、1本の濁った流れだ。


濁り河(ティビス)』と呼ばれるその運河は今、宵闇に暗く揺蕩(たゆた)っており、水面には少女の透き通った歌声が響く。


『朝夕に陽を映す黄金の流れよ、運んでおくれ。

都には数多の富を、

遠き海には旅人を


そしてふるさとの恋人には我が熱き心を。


ティビスよ

濁りてもなお美しき悠久(とわ)の河……』


リフレインまで歌いきったところで、はぁぁぁ、と深いため息。


桟橋の端から出た足が、ぶらぶらと所在なげに振られる。


「ついでに、わたくしの心もお母様に届けてくれないかしら」


深い紫の瞳が運河の上の空をさまよう。

探すのは、たった1つの星。

しかしその星はまだ、工場群の陰に隠れていて見えない。


「アナスタシア様、そろそろ戻りませんと」皇女の隣に腰を下ろした少年が、少し姿勢をただすようにして言う。

「皆が心配されてしまいます」


「もう少しだけ」


「ノートースの1つ星(ソルステラ)が見えるまで待っていては、遅くなってしまいますよ」


ティルスは困ったような顔をした。

季節は移ろい、はるか南の空を彩る星が天に昇る時刻は後にずれてきている。

待ってから皇都の離宮に帰れば、夜半を回ってしまうだろう。


しかし、アナスタシアが帰りたがらない理由も分かる。


離宮の人々は相変わらず、丁寧だがどこかよそよそしい。

聖王国への出立が近づくにつれ、その準備も始まっている。


(追い出されるように感じてらっしゃるのだろうな)


聖王国からは、南の地(ノートース)1つ星(ソルステラ)は見えない。

その下で彼女の無事を祈っている母親とも、2度と会うことはないだろう。


「では、今夜はフラーミニウス家にお世話になりましょう」


黙ったまま空を見上げる皇女に提案すると、たいまつの灯りの中でその顔がぱっと輝いた。


「いいの?」


「今夜だけ、ですよ!」


護衛兵に伝えてまた少女の隣に座り、後ろ手をついて空を見上げる。


「手をつないで、くれないのね?」


「わきまえなければ、いけませんから」


少し前までは手をつないで一緒に駆け回っていた。

その頃にティルスが贈ったガラス玉の腕輪はまだ、おずおずと膝に載せられた皇女の手首を彩っている。


しかし、アナスタシアが聖王国の正妃となる日が近づいた今は、許されないことだった。


「でも……寂しいわ」


「そうですね」


言葉少なに1つ星(ソルステラ)が昇るのを待つ。


どれほど時が経っただろうか。


「あ」

暗く沈む工場のすぐ上に、柔らかい白の輝きが現れた。


アナスタシアの手が、ティルスの膝を離れて天を示した、その瞬間。


はらりと腕輪の糸がほどけた。


色とりどりのガラス玉が宙を舞い、小さな音を立てて、闇の色の水の中に吸い込まれるように消えていく。


「いやっ」

鋭い叫びと共に、アナスタシアの足が桟橋の縁を蹴った。


「……っ!」

ティルスの声にならない叫びと、鋭い水音。


皇女は腕輪を追って、夜の運河に飛び込んだのだった。

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