8.お嬢様は虫を喰う(2)
霊鬼は人の魂に根を下ろし、その心をエサとする。霊鬼に憑かれた人は、やがて死ぬ。
人が死ねば、その身体に卵が産み付けられる。卵は人の肉体を養分として育ち、やがて孵化して芋虫のような姿の土鬼となる。
自然界には無駄がない。
「もっとも、人間としては困りますよねぇ」のんびりとした口調でリクウが説明した。
「そこで精霊魔術では、死体ごと封じるのが一般的な対処法です」
「死んでるではないか」と、ヴィントネレ。
「はい。いったん霊鬼に憑かれたら終わりです」
「なるほど……で、エイレンは何をしようとしている?」
「浄化」「おそらくは」アリーファとリクウが口々に答える。
彼らの視線の先では、エイレンが、霊鬼の憑いた男の頭を抱え込むようにしていた。
周囲が静まり返って見守る中、精霊魔術の文言が呟かれる。
『…………よ。こちらにおいで』
精霊魔術師の鋭い耳がその言葉を拾った。
(エイレン、何を……)
誘おうとしている。
霊鬼を引き離すつもりなのか。
そんなことが、可能なのだろうか。
エイレンは目を閉じて意識を男の魂に根差すモノに添わせ、誘い続ける。
『こちらにおいで。甘い蜜を飲みたいのでしょう?おいで。お前の好物はこちらよ』
霊鬼の好物は、嫉妬、悲しみ、憎しみ、恨み、怒り……人の奥底にたぎる負の感情。
(これがわたくしよ)
誰を傷つけ殺しても何も感じない、その心の底に潜んでいた憎悪。
この世界の全てが無くなってもかまわないと思うほどの慟哭。
この世界の全てを滅ぼしたいと願うほどの憤怒。
(どこに逃れても、忘れていても、消えるわけではない)
エイレンは微笑み、霊鬼を誘い続ける。
『美味そうでしょう?貪りたくて、たまらないでしょう?ならば、おいで。おいで……』
繰り返される呟きに、アリーファは、はっと気づいた。
「師匠、これって」
「霊鬼を自身に憑かせようとしているようですね」
「止めなきゃ!」
リクウはそっと拳の内側で手のひらに爪を食い込ませ、平静な声を作る。
「狼が霊鬼を喰っていたのを覚えていますか」
「……まさか」
アリーファが息を呑むのに、穏やかにうなずいてみせる。
「おそらくは取り込んで浄化するつもりなんでしょう」
「そんなの、失敗したらどうするの!」
「おや、あなたらしくないですねアリーファさん」
「だってエイレンって無茶する子だから」
大丈夫と言い切るには、心配すぎるのだ。
友人想いな言葉に、リクウは口元をわずかに微笑ませた。
「その意見に反対はしませんが、今は信じるしかないようですよ」
「師匠、なんか冷たい……」
「僕は彼女の望みを叶えてやりたいだけですよ」
その時、目では見えない蝶の翅がふわりと男の背から離れた。
『おいで。こちらよ』
素早く差し伸べられたエイレンの左手に蝶が止まる。
空いている右手が、愛しげにその翅に触れた。
触れた部分から光が虹色にきらめきつつ散っていくのが、精霊魔術師の意識に映る。
「きれい」アリーファが呟いた。
人に取り憑き狂わせるモノ。
それは、凶悪さなど微塵もなく、儚く美しい姿をしている。
くすり、とエイレンが笑う。
その両腕が、蝶を翅ごと抱き締めた。
霊鬼はねぐらに潜り込もうとするように身を震わせてもがいていたが、やがて、少しずつ消えていった。
アリーファは意識を集中させてエイレンの背中を窺う。
もし取り憑かれてしまったなら、きっと先ほどの男と同じように翅が視えるのではないかと思ったのだ。
しかし、いくら待っても友人の背に翅は生えてこず、その様子も普段と変わらない。
「浄化したの、かな」
「いえ……まだ、中に居ますね」
リクウもまた意識をエイレンに集中させつつアリーファに答える。
「エイレン!」真っ先に動いたのはヴィントネレだった。
神官には霊鬼が今どのような状態かも分からないはずなのに、ためらいもなく妹の傍に跪くと、両手でその顔を挟んで覗き込む。
「大丈夫か?どこか痛くはないか?気分は?何かほしいものはあるか?」
「兄上、落ち着いてくださいな」
「しかし……」
「何ともありませんわ。この子も、わたくしの神力で、そのうち良い具合に浄化されるでしょう」
慈しむようにそっと胸を押さえる妹を、ヴィントネレは気遣わしげに見る。
「霊鬼を、そこに封じたというのか?」
「さすが兄上、良い表現ね。それが、いちばん近いわね」
「そんなことをして!何かあったらどうする!?」
「あら。下働きを1人巻き込むより、マシではなくて」
「確かにそうだが」ヴィントネレの顔が苦しそうに歪んだ。
「違うんだ。正しいが、ダメだ」
「仕方のない人」エイレンは優しく兄の頭を撫でて微笑む。
「大丈夫よ。問題ないわ。この子も、わたくしの裡が気に入ったようよ。大人しくしてくれているわ?」
「もし何かあったらすぐお兄ちゃんに言うんだぞ」
「そうしたら、わたくしを殺してくださるのね?」静かな問いかけだった。
「もし浄化に失敗して取り憑かれたら、きちんと殺してくださいね」
「何を言う。殺すなど、とんでもない」夜の色の瞳が、真っ直ぐにエイレンを見る。
「閉じ込めて2度と出さないから覚悟しろ」
「あら、ではほかの方に頼まないといけないわね」
「そうだ。そんなことはほかの者に頼め。お兄ちゃんは、もっと分かりやすい甘え方をしてくれた方が嬉しい」
「あら、そういうことなら」エイレンはニッコリして、兄に両手を差し出した。
「この礼に、特級ワインを1樽くださればとっても嬉しいわ。大好きなヴィー兄様」
「上級ではダメか」
「特級」
「もしこの冬、雪が降らなければ来年は特級ワインが作れなくなるのだが……」
「特・級」
そちらの事情など知らぬ、とばかりにエイレンはにこやかに同じリクエストを繰り返し、最終的に。
「1樽だけなら」
ヴィントネレはしぶしぶ、折れたのだった。




