6.お嬢様は遠足に行く(2)
「うへへへ」アリーファは大きな狼の長い銀色の毛に顔を埋めて、だらしなく笑う。
「あぁぁぁ……このふわふわ感と束感ともそっとする毛先……それから温もり……」
たまらなく、クセになる。
そんなアリーファをエイレンは半ば呆れ、半ば慈愛の眼差しで見ていた。
「ハンスさんが嫉妬するレベルでデレているわね」
「ハンスさん嫉妬なんかしないもーん」
「あら、だったら後で報告して差し上げるわ。こちらの里神様と絡んで蕩けていたと」
「え?どうしよう、もし本当に嫉妬されちゃったりしたらっ」
「……嬉しそうねアリーファさん」
「えへへー」
狼の背に頬ずりをしてニコニコする。エイレンは気付いていないかもしれないが、しかし。
(だっていつも私が嫉妬する方だもんね!)
神様なんだから『一の巫女』にデレても仕方ないかもしれない。でも、いつも思ってしまうのだ。
ハンスさんエイレンに甘い、甘すぎる!と……
たまには強烈に嫉妬してほしいものではないか。
(独占欲ばりばりの発言とか、されてみたいぃぃ!)
その時のハンスさんの顔を想像してみる。狼の毛皮効果と相まって、顔が崩壊するのが止められない。
「うへへへへぇ……いい気持ちぃぃ」
「さて、毛皮は後で堪能することにして」リクウが声を掛けた。
「それぞれに、精霊魔術で結界を張ってみましょうか」
本日は森の中で野宿の予定だ。
精霊魔術の結界は人ひとり分ほどの範囲であるが、森の獣たちから気配を隠し、夜の寒さから身を守るには便利なものである。
エイレンが頷き、すぐに文言を唱え始めた。
古くからある森は精霊の力を借りやすい場所。
木の葉を揺らす風の囁きにも似た音韻を重ねながら、精霊に同調し少しずつ不可視の天幕を織り上げ、結界と成す。
張られた結界は緻密で、正確な円を描いていた。
「見事ですね」リクウが目を少し和ませる。
「アリーファも」
「はい!」張り切って精霊魔術の文言を唱え出したアリーファであるが、途中で急に言葉を切った。
「―――あれ!?なんでっ!?」
上げられた悲鳴と同時に、バギボギと枝の折れる音を伴いながら、周囲の樹木が倒れてくる。
狼が素早くアリーファに頭突きをする。突き飛ばされたアリーファが最前まで居た場所に、大きなブナの木がドーン、と着地した。
「まさかの精霊魔術で環境破壊」
エイレンが無表情に評し、アリーファは狼に向かって土下座する。
「うううっ、ご、ごめんなさいっ!ほんとにほんとにごめんね!」
狼のフサフサとした銀色の尻尾が、気にしていない、というように振られ、リクウが解説する。
「倒れたのは立ち枯れしていた樹ですから大丈夫ですよ」
「立ち枯れ……この森で、こんなにあったというの?」
「有り得ないことではありません。同じ時期に生えた芽が、同じ時期に寿命を迎える、というのは」
それを異常とするには、判断材料が少な過ぎる。
しかし、不穏な流れになっている、という感はどうしても否めなかった。
降らない雪、この季節には珍しい穏やかな気候に誘われるように羽化した霊鬼、そして立ち枯れする樹木。
もしこのまま続けば、セッカは人の住めない土地になってしまうだろう。
止めようとするのならば、先にあるのは、大多数の者にはどうということのない小さな別れだ。
―――『一の巫女』という地位の本来の役割を知ってしまった今、いくら彼女の一挙一動に心が波立とうとも、その想いのままに進むことはできない。
いくら手放したくないと思っても、早晩、彼女は自分の元から去って行かざるを得ないだろう―――
リクウは先端に透輝石のついた杖をかざして、足元を照らした。
倒れた樹の下に、新しい芽が出ていれば、まだ希望が持てるような気がする。
しかし、それを探すには、透輝石の青白い灯は暗すぎた。
「さて」頭を1つ振り、泣きそうになっている弟子に向かって、何事も無かったかのように穏やかに言う。
「もう1度、試してみましょう。もっと発音に気を付けて、丁寧に」
アリーファは両手で目をごしごしと拭って、また精霊魔術の文言を唱え始めたのだった。
夜中。
リクウは結界越しにも感じられる空気の冷たさに、ふと目を醒ました。
アリーファは2度樹々を倒し、3度目の正直でやっと張った結界の中で、狼の背を枕に眠っている。
「……ハンスさん……フサフサ……」
寝言を発する顔は幸せそうだ。
そして、もう1つ、その隣に張られていたはずの結界は……主ごと、消えていた。
起き上がって透輝石の杖を持ち、まじないを口の中で唱えつつ森の中を追跡する。彼女のことだから心配はないだろう、と思うが、追わずにはいられなかった。
月はなく、星の光は木立の間にまで届かない。
ただ、彼女の足跡だけが、まじないの効果で、黒い土の上にぼんやりと浮かび上がっている。
それを辿ると水の音と匂いが次第に近くなってきた―――川だ。
速い流れに素足を浸し、エイレンはぼんやりと空を見上げていた。
「風邪を引きますよ」
そっと隣に腰を下ろして声をかける。
雪は降っていないとはいえ、冬間近の川の水は、凍るように冷たいはずだった。
「だいじょう」大丈夫、と答えかけたエイレンの蜜色の瞳にいたずらっぽい光が宿る。
「ええ。とても冷たかったわ。温めて下さる?リクウ様」
すっと水から引き抜かれ、差し出された両足は氷のようで、長めの足指の先が赤く染まっている。
「いいですよ」
触れる面積を最小限にしつつ、精霊魔術を使い始めると、いきなり柔らかいものがリクウの唇を塞いだ。
「まじないはダメ」顔を離して、エイレンが微笑む。
「その手と息で、温めて下さる?リクウ様」
「しかし……」
そんなことをして、衝動が抑えられなくでもなったらどうするのだろうか。
1度自覚した想いは、容易に消えはしない。
1度抱きしめれば、次はもっと強く、何度でも、その身体と心を腕の中に収めたくなってしまう。
「大丈夫」逡巡するリクウの手にエイレンの手が重ねられた。
「大丈夫だから、お願いね」
そんな保証を勝手にされても、困るのだ。
「どういうつもりですか」
「ただの思い付きよ。多寡が足の1つや2つ、気になさらないで」
「……悪い人ですね君は」
「そうよ」クスクスと笑ってエイレンは応じる。
「本当はあなたが欲しくてたまらないけれど、叶えてはいけないから。この程度なら、別にかまわないでしょう?」
冗談混じりであるかのような、軽やかな物言い。
リクウは恨めしげにため息を1つ吐く。
「かまいますよ」
「そうなの?」嬉しそうなエイレンの声。
「で、どうして下さるのかしら?」
リクウはもう1度ため息をついて、先の赤くなった、白く細く冷たい両足を押し戴いた。




