4.お嬢様は帰還する(3)
金の髪をそっと撫でると、透輝石の光がその上で踊る。
ほかは全て静かなのに、そこだけが、その身体が彼女であった頃と同じように生き生きとしている。
最初出会った時にも、こうして一房ずつの髪を捕らえては色を変えたのだったと思い出す。
その後も、この単純だが手間だけはかかるまじないはしばしば必要だった。
あの頃の彼女は、隠れなければいけない身だったにも関わらず、無頓着に神魔法を放ちまくっていたからだ。
思えば、随分と荒れていたものだ。
その荒れようがどこか悲しく哀れで、ついウッカリ、容赦なく巻き込まれて便利に使われた。
それだけだったはずなのだ。
いつからだったのだろう?
彼女が、自分と居るだけで安心するようになったのは。
いつからだったのだろう?
それを嬉しいと思うようになったのは。
いつからだったのだろう?
自分に向けられる彼女の声が、甘やかな響きを帯びて心を縛るようになったのは―――
頭の中で、彼女を気に掛ける者たちの声が響く。
『エイレンが居なくなってもいいのか?』
『バカ師匠っ!』
『なぜ手を尽くさない!?』
エイレンは、明らかに彼女自身であることを投げ出している。
何度もその魂に帰るべき場所を教えても、魂は戻ってこなかったのがその証拠だ。
これから先『エイレン』として生きることは、彼女の本意でない。
そう言い訳しても、皆の声は消えずリクウを責める。
『あんたはどうしたいんだ?』
その答は、許されることではない。
変わっては、ならない。
「ザナ」かつての恋人の名を呟く。
身寄りの無い女だった。
誰よりも深く関わった自分が、どうして変われるだろうか。
もし自分が変わり、忘れてしまえば、その時に女は本当の死を迎える。『ザナ』はどこにもいなくなってしまう。
変わっては、ならない。
そう思う上から、被せるようにキルケの声が蘇る。
『私が代わりに試してもいいんだな?このカラダの上から下まで余すところなく口づけて……』
冗談じゃない、と拳を握り締め、再び開く。
冗談じゃないが、器だけならばそれはエイレンではない。
近い将来、側室として手の届かぬ存在になるのは、ただの器なのだ。
そちらの方が、彼女自身としてほかの男に抱かれるよりは、余程マシだ……
心の片隅にあったそんな思いに愕然として、リクウはひとり大きく息を吐いた。
気付きたくなどなかった、なんとも卑怯で矮小な想いが、平坦だった心にさざ波を立てている。
ザナの死以来、一緒に死んでしまったと思っていた心は、今、確かに動き出していた。
かすかな動揺だが、止められる類のものではない。
どうすればいいのか?
『あんたはどうしたいんだ?』
許して下さい、とリクウはかつての恋人に詫びた。
エイレンをこのまま失ってしまっては、また自分を許せなくなってしまう。
可能性があることは、試してみなければ。
精霊の加護を願うまじないの言葉を呟き、額に口づける。
『もっと』―――わがままにねだる声に、心がざわめいたのはいつのことだったろう。
今もまた。
魂の宿らぬその身体は、ただの物質に近いはずなのに、明らかに他のものとは違う。
(やはり君はここに居なければ)
願いを込め、閉ざされたままの目蓋にそっと唇で触れる。
表情の消えた彼女の顔は、人形よりも固く、悲しい。
―――いつ、知ったのだろう。
無邪気なまでに素直な表情が、自分にのみ向けられることを―――
(もう1度、笑って下さい)
ゆっくりと、青ざめた唇にキスを贈る。冷たかった肌が同じ温もりになるまで待って顔を離す。
しかし、横たわった彼女に変化は見られなかった。
もう1度。
今度は治癒のまじないを唱えつつ、額に、目蓋に、頬に、唇に、口づけていく。
少し思案し、手足、首、胸と順に顔を寄せ、再び唇に戻る。
神力の支配する冷たい身体に、熱い精霊の息吹を送り込む―――
(まだ、だめだ)
ぴくりとも動かない。
溜め息をつき、次は何のまじないを試そうか思案しかけて、ふと気付いた。
閉ざされていた唇が、ほんのわずかに開いて、息が漏れている。
もしや、とリクウはそのなめらかな額に手を置き瞑目した。
(…………仮病!)
一体いつから?
脱力しそうになりながら手を離し、寝たフリを続けるエイレンを見る。
人をからかうのが好きな、彼女らしい。
やられた―――、そんな思いと共に、胸の奥で動くものがあった。
久しく忘れていた、愛しい、という感情。
その感情が持つ温かな鼓動が、リクウを困惑させる。
こんなものがあっては、かえって触れにくい―――
そう考えて離れようとした服の裾を、細い指が掴んだ。
指先で軽くつままれているだけなのに、引き寄せられる。
「だめよ」久々に聞くその声はかすれて、少し震えていた。
「もっと」
囁くような言葉が、リクウの心臓を縛る。
逡巡しながらもエイレンに顔を寄せ、また、額から順に唇を当てていく。想いがこもらないよう、注意しながら。
それが柔らかな唇に到達した時、細い両腕が彼の背を捕らえた。
離れることが許されないまま、何度も口づけが繰り返される。
次第に熱を帯びてくるそれが苦しくなった時、かちり、と2人の歯がぶつかった。
顔が離れ、蜜色の瞳がくすり、と小さく笑う。
「会いたかったわ」
抱きしめられた倍以上の力で細い身体を抱きしめ返しながら、リクウは思った。
―――出会った最初から、彼女の好意は純粋でまっすぐで、目を逸らすことなどできなかったのだ―――
※※※※※
『アリーファ流行雑貨店』
真っ白な絹地に洒落た飾り文字が染め抜かれた垂れ幕を、西日がほのかに染める。
「この恥ずかしい店名も、慣れたら大したことないなぁ……」
自分の名が殊更に大きく書いてあるその布を外し、丁寧に畳みながらアリーファはひとりごちた。
精霊魔術師の館から戻ってみれば、のんびりとしたお嬢様の生活が身に合わなくなっており、率先して店の手伝いをする日々なのだ。
商品の整理や掃除など、使用人に混じって毎日店に出入りしていると、イヤでも両親の自分に対する溺愛っぷりが見えてくる。
店舗内には非常にさりげなく……しかし、割かししつこく、アリーファの肖像画が飾られている。
帳面を整理すれば、仕入れている品も一部、アリーファの成長に従って変わっているのが分かる。
赤ちゃん用の柔らかな布地やガラガラ、木馬から女の子が遊ぶお人形に。
今では、刺繍の入ったハンカチや美しい絵の入った扇子、宝石のついた小箱などになっている。
乳鉢や蒸留器具などはおそらく、家出同然に精霊魔術師の元に弟子入りしてから揃えたのだろう。
『あなたが生まれた時に、あなたが気に入るような店にしようとお父様が言い出して』
それまでの高級品店から変えたのだ、と母から聞いたことがある。
その時には、気分がモヤモヤした。婿をとって後を継ぐ未来がすでに決められているのがイヤだった。
しかし、それを言うことはできなかった。どの家でも似たようなものだったからだ。
だが、今ならわかる。両親は、考え得る選択肢の中で、最善を尽くそうとしてくれていたのだ。
(だからって継ぐとか決まってないけど!)
この店は確かに、アリーファが気に入るようになっている。
店じまいを終え、夕食までの時間で人形の手入れをするのも、ここのところの習慣だ。
小さなクローゼットから、レースとフリルがたくさんついた淡いピンクのドレスを取り出す。
店の手伝いの合間に考えていたのだ。エイレン本人なら絶対に(いくらダナエに言われても)拒否しそうな甘々なコーディネートを。
髪は巻いて、ふわふわしたカールにしている。出会った最初の頃エイレンは、変装のためにこんな髪型をしていたのだ。
本人には言えないが、それなりに似合っていた。
丁寧に髪を整えて、プラチナに真珠をあしらったティアラを載せる。
友人の不本意そうな表情が目に浮かび、思わず、くすくすと笑ってしまう。
「エイレン、可愛いじゃない」
「嘘おっしゃい」憮然とした声が、背後から聞こえた。
―――背後?
「こういうのが似合うのは、あなたの方でしょう?」
振り返って、その姿を確認した緑の瞳が、大きく見開かれる。
「エイレン!」
少し痩せた友の顔が、ふわりと花のような微笑みを浮かべた。
「驚くか泣くか、どちらかになさいな」
言われて、自分が泣いていることに気付き、ゴシゴシと目をぬぐうアリーファ。
駆け寄ってその首に飛び付く。
不意打ちを受けきれずに、エイレンの細い身体がよろけて、尻もちをついた。
「あれ?ご、ごめんっ!」
まさか、自分ごときのタックルで。
慌てて謝るアリーファから、エイレンは気まずそうに目を逸らす。
「こちらこそ、ごめんなさい。筋力が落ちていて……」
珍しい友の言い訳に、アリーファはつい、笑ってしまう。
それに対し、憮然とした表情が返ってくるのが、またおかしい。
ひとしきり笑って、アリーファはやっと言った。
「お帰りなさい!」
「あなたに言われる筋合いなど、なくてよ」
素直じゃない反応もまた、懐かしい―――
読んでいただきありがとうございます!
この度は更新が遅れて……どこが手間取って、とかいうグチはまた後ほど活動報告でいたしますが、それはさておき。
なんと、盛大にのたうっている間にまたしてもブクマいただいてしまいました!
最近の鬱展開から、読んで下さる方が少なくなる予想しかできなかった時に!
めちゃくちゃ励みになりました!感謝です。
そして、これまで見捨てずお付き合い下さっている方も、本当にありがとうございますm(_ _)m
できましたら、今後ともぼちぼちご訪問いただければ嬉しいです。よろしくお願いしますm(_ _)m




