1.お嬢様は家出をする(2)
濃い緑の匂いに包まれ、エイレンは己が逃げおおせたことを知る。
(どうやら森に跳べたようね)
神魔法の力をわざと暴発させ、その反動で己が身を飛ばす。着地点が森の中とは、初めてにしては上出来の結果ではないか。
自らが放った閃光で目がまだ眩んでいるが、見えたところで同じような夜闇が続いているだけだろう。
それよりは他の感覚を総動員して、周囲の安全確認を行うべきだ……と思った時、ひんやりとした大きな手に足首をつかまれた。
(なに?!)
近くに人がいるのに全く気配を掴めないなど、普段の己には有り得ないことだった。
その人はなにやらブツブツと耳慣れない呪文を唱えながらふくらはぎに手を当てる。次の瞬間襲ってきた焼けつくような痛みに、エイレンは身をこわばらせた。
「なにをするの!」
「おや、感覚が戻ったようですね。良かった」
落ち着いた穏やかな男性の声に、敵意はないように思える。
「出血が酷いから筋肉までいったかと心配したんですよ。とりあえず傷口は閉じましたから、少し痛むかもしれませんが大丈夫です」
淡々と説明し、もう片方の足首をつかんだ。
「こっちは骨折……ではなくて、挫いただけですね。炎症止めのまじないをしておきます」
目が徐々に慣れてきて、周囲が暗闇ではなかったことに気付く。不思議なやわらかい光を放つトーチが、辺りを白く照らしているのだ。
そして目の前には見知らぬ青年がいた。ややクセのある黒髪はうなじの辺りで無造作に切られ、うつむいているので顔は見えない。しかし今、引っ掛かるキーワードがあった。
「精霊魔術……あなた、リクウ師なの?」
「おやご存知でしたか」
見上げた瞳は灰青色。怜悧な顔立ちはともすれば冷たい印象を与えそうだが、その眼差しは穏やかで優しかった。
「ええ。神殿関係者の間でも有名人だもの。絶滅危惧種なのに『人畜無害の顔と人柄で仕事が切れない』精霊魔術師」
「……なんだか複雑な心境になってしまう説明をありがとうございます」
終わりましたよ、と言われ足を軽く動かしてみる。痛みはあるが傷の程度に比べればマシだ。
「こちらこそありがとう。これはお礼よ」
エイレンは懐から小さい袋を取り出し、中身をザラッと手のひらに広げて差し出した。
「好きなだけ取ってちょうだい……どうしたの?」
「いえ、ちょっと……どうしようかなこのお嬢様とかうっかり思ってしまったものですから」
「わたくしを世間知らずだというの?」
エイレンの手をそっと押し戻しつつリクウは忠告する。
「金貨はあまり人に見せない方が良いですよ。庶民の間では流通していないので」
すぐに身分がバレてしまいますよ、と言われ、エイレンは相手が己の事情をある程度推測しているらしいことを悟った。
「わたくし神殿を逃げてきたの」
「まぁそうでしょうね」
推測はしていても細かい事情にもエイレン本人にも興味が無さそうである。リクウはあくびを1つして毛布にくるまり、横になった。
後は勝手にしろ、と言わんばかりの態度である。
「怪我を治していただいたお礼を何かしたいのだけれど……金貨がダメなら、この首飾りはいかが?」
「要りません」
確かにワケありそうな娘からの装飾品など要らないだろう。後に残るものは1つしかない。
「ではこの身体ではいかがかしら?」
リクウは起き上がり、まじまじと娘を見た。その、光が射すと金の輝きを帯びそうな蜜色の瞳はいたって真剣である。
貴族の感覚は庶民から見るとしばしばぶっ飛んでいるものだが、ここでそんな事例に遭遇しようとは。
「うーん……君は確かに魅力的ですが」
女性からの誘いを断る時には気を遣わなければならないのが面倒だ。
「好きな女性しか抱かない主義なので悪しからずご了承下さい……どうしました?」
「いえなんでもないのよ」
エイレンは咳払いを1つした。
(『好きな女性しか……』なんて!なんってピュアで可愛いセリフ!)
思わず身悶えしそうになったなどと言えやしない。
「でも、なにかお礼をしないと気が済まないわ。こんなヒドい怪我を治して下さったんですもの」
「じゃあまた機会があった時に後払いでいいです。銅貨20枚」
「銅貨?見たことないわ」
「この辺りなら、相場は1枚でパン1個。ですが……やっぱり君は神殿に帰った方が良いんじゃないですか?」
神魔法の方はかなりの使い手とみたが、この娘は他の部分に不安があり過ぎる。
数日後には身ぐるみ剥がれてそれなりの値段で売られているか、そうなる前にまた複数の死傷者を出して本格的なお尋ね者にでもなっていそうだ。
エイレンの表情がさっと曇る。
「帰れないわ……ご存知でしょう?わたくしが逃げるために何人もの衛兵を害したのを」
あの時はただ、その場から逃げることしか頭に無かった。そして強い神魔法の力に心が支配されて、人を傷付けることを何とも思わなくなっていたのだ。
「帰ると罰されるのですか」
「いいえ」
罰されるのであればまだ気持ちは安らぐだろうが、身分ある者はそうはいかない。
「何事も無かったことにされるのよ。そして、国王様の側室になるの」
隣合って建てられていることからもわかるように、聖王国では神殿と王宮のつながりが深い。国王は政治的な立場から他国の姫を正妃に迎え、その一方で側室を神殿から娶るのがならわしである。
大陸の北辺に位置する聖王国はもともと自然条件が厳しい地だ。冷たい外気や作物を枯らす海風、年に幾度も訪れる嵐を、神の作った結界が守っているからこそ人々の暮らしが成り立っている。
その結界は国王を核として張られ、その核にさらに神の力を注ぎ結界を強固なものにするのが神殿の女の役目である。そのための側室だった。
そしてこの春の大祭にて国王の側室に上がることが決まっていたのが、神殿で最も力を持つ『一の巫女』ことエイレン・デ・イガシームなのだ。




