1.お嬢様は想い出を抱きしめる(1)
訪問いただきありがとうございます。
今回から終章です。
ここから読んでも(多分)入れるよう、第3章までの説明を若干加えています(全然無理だったらごめんなさい)
お楽しみいたれば幸いですm(_ _)m
「大丈夫よ」母は言った。
「寂しくなったら、1つ星を探しなさい。しばらくはその下で、あなたのことを想っているわ」
「しばらくは?ずっと、じゃないの?」
「人と人はね、いつかはお別れするのよ。それが、少し早いだけ」
「いやよ!いや!」
母に抱きついて何度も繰り返すが、どうして一緒に来てくれないの、という言葉を素直に出してもどうしようもないことは分かっている。
「お母様と、ずっと一緒にいたいの!」
「大丈夫よ。これからは皇帝陛下や、聖王国国王様があなたを守って下さるわ」
1つ星の光の下で母が微笑む。
「大事なのは、ずっと一緒にいることじゃないのよ」
わからない。大好きな母。大好きなオルトスの人たち。別れたくなんか、ない。
皇女なんかでなければ良かった、と聖王国との婚姻が決まってから何度も思ったことをまた心の中で繰り返す。
そんな少女の黒い髪を、母の濃褐色の手が優しく撫でる。
「ずっと一緒にいたい人と出会うことが、大事なの。そんな人と出会えたら、それがたとえ短い間でも、生きるための支えになるのよ」
「お父様のこと?」
母は前皇帝がノートースを視察した折に差し出された女だったが、身分の低い属州の民で、側室にすらなれなかった。
子をなしてオルトスの離宮が与えられてもそれは変わらず、前皇帝の葬式に出席することさえ許されなかったのだ。
そうね、と母はまた微笑んでアナスタシアを抱きしめた。
「それに誰よりも、あなたに出会えて良かったわ」
きっとこれからも、多くの人がそう思ってくれるでしょう。
だから、いつでも心を開いていなさい。
そして、いつでもあなたらしくいなさい。
―――それが、皇都へ発つ前の晩、母から贈られた餞の言葉だった。
※※※※※
西に傾く太陽が、茶色く濁った水にゆらめく黄金の道となって映り込む。ティビス運河の桟橋に腰を降ろし、アナスタシアはじっとそれを見詰めていた
予定通りであれば、そろそろ、この道の向こうから帝国の旗を掲げた黒い軍船が現れても良いはずだ。だが出迎えに通い始めてから3日、まだ船は現れない。
「アナスタシア様」従者の少年が、声を掛けた。
「そろそろ戻りませんと」
女の子のようにさえ見える端正な容貌はきっと、心配そうにこちらを見ているのだろう、と彼女は思う。
「もう少しだけ」
皇都の離宮には帰りたくなかった。
オルトスから移って3ヶ月。それはアナスタシアにとってはじゅうぶんに長い月日だった。
兄である皇帝も、その母である皇太后も、またこちらで付けられた侍女たちも、皆、親切だし丁寧に接してくれているとは思う。お妃教育は好きではないが、必要なことなのだと理解はしている。
ただ、以前にごく自然に抱いていた期待は、今はどこかに消えてしまっていた。
一生懸命にレッスンを受けてその通りに振る舞えば、そのうち彼らに馴染み愛されるだろう―――それがいかに甘い見通しであったかが、沁みるようにわかってきたのだ。
皇女として接してくれていても、誰もアナスタシア自身を見てくれようとはしない。そう望むこと自体が贅沢なのかもしれないが、13歳の少女にとって、それはやはり寂しいことだった。
「暗くなると離宮の皆様が心配されますよ」
そうなった時に1番困るのは、おそらく叱られてしまうティルスだろうに、その声は穏やかだ。この従者はアナスタシアに徹底的に甘い。
だからつい、甘えたい放題に甘えてしまう。
「もう少しだけ、あなたとここにいたいの」
「じゃあもう少しだけ、ですよ」
「工場の上に『ソルステラ・ノートゥシス(ノートースの1つ星)』が出るまで」
「……確実に暗くなりますね」
仕方ないなぁ、というように笑い、ティルスは付き添いの兵士に守備隊への伝言を頼んだ。
お忍び帰りには守備隊の馬車を借りるのが常である。いつも申し訳ないとは思うのだが、彼らは快く許可してくれるのだ。
「皇女殿下に何かあったりしたら仕事が増える……どころじゃ済みませんからね」と。
しかし、兵士が頷き立ち去りかけたところで、やってきた背の高い影が「ああ、今日は行かなくていいよ」と爽やかに言った。
「皇女殿下は我が家の馬車でお送りしよう」
「ありがとうございます、レグルス様」
「いいえ」にこり、とするレグルス。
「皇家の馬車ほど立派ではないが、守備隊の鉄格子付きよりはマシだろう?」
「皇家の馬車よりよほどいいわ!」アナスタシアが振り返った。
「内装がきれいで、なんだかほっとするわ」
「そう言ってもらえると嬉しいね」レグルスは顔を和ませる。
フラーミニウス家の馬車の内装は淡い色を基調とし、シンプルで優美だ。
「母の趣味のままなんだ」
「お母さま、素敵な方だったのね」
「さあね?」
良くも悪くも『貴族のお姫様』だった母は工場経営を主にしているフラーミニウスの家風に最後まで馴染めなかったのだと思う。
家の女主人、という自覚もあったのかどうか。ただ優美なものに囲まれてその中で漂うように暮らし、この世に大した執着も持たずに去っていった。
「客観的に見ると素敵、とは言い切れないかもしれないな」
ただ言えるのは、そんな母を父も自分たち兄弟も愛していたということだ。だからこそ、亡くなって何年も経った今も『母の趣味』は生きている。
「そうなの?」と首を傾げるアナスタシアに、レグルスは『母にそっくり』と言われる顔にふわりと笑みを浮かべて告げた。
「けれど、そう言ってもらえると僕たちは嬉しい」
夕闇が濃くなると同時に、白く強い輝きを放つ星が、運河の向こうにある工場群すれすれにその姿を現した。
(あの下にお母様がいらっしゃる)
オルトスから旅立つ前に母と眺めた1つ星。オルトスではもっと空の高い位置にいたが、皇都や南都からは南の空スレスレにしか見えない。
さらに北の聖王国から望むことは難しいだろう。
『ずっと一緒にいたいと思える人と、出会うことが大切なのよ』
きっと母は、聖王国の国王がアナスタシアにとってそんな人になるよう、願っているのだと思う。母にとって父が、そうであったように。
父とは年に数えるほどしか会わなかったが、それでも母は幸せそうだった。
(でも今は国王様よりももっと、ずっと一緒にいたい人がいるの。きっと、1つ星が見えなくなっても、この子が傍にいるなら平気)
そう言ったら母は喜んでくれるだろうか。
「星がしっかり見えるようになりましたね」
ティルスが穏やかに皇都の離宮への帰宅を促し、その隣でレグルスが残念そうな表情を作る。
「今日あたり船が帰ってくるかと思ったけれど、まだだったみたいだな」
「ルーク様が乗っておられるのよね」
少し前に仲良くなった青年は、恐い感じのする宰相とほとんど同じ顔なのに、なんだか可愛らしく見えた。
たぶん、あの方にとってずっと一緒にいたい人が、近くにいたからだと思う。
「お土産話を聞きたいわ」
そんな人と別れたら、やはり悲しいのではないだろうか。それとも、母の言うように、会えただけで幸せ、なのだろうか。
「そうだね」レグルスがまた、ニコリとする。
そろそろ行こうか、と言われて立ち上がり、ノートースの1つ星を振り返りつつ桟橋を戻っていた時。
ふと、視界の片隅で何かが動いた。
身体の向きを変えて確認すれば、わずかな光が残るだけになった西の空を背にし、黒い船の影がゆっくりと大きくなってきた。
「やっぱり、もう少し待ちましょう!」
「そうですね」ティルスが半分困って半分期待している顔で頷く。
軍船は、少しずつ少しずつ、彼らの方へと近付いてきた。




