22.お嬢様は救助される(2)
「なぁおい」キルケは魚をかじりながら呟いた。
「なんだね相棒」ハルサが焼けた魚を飲み下しつつ応じる。
「あんたさ、女から『はい、あーん』とかしてもらったことあるか?」
「うーん」しばらく考え、正直に答えるハルサ。
「無いとは言わないが、あまり好きではないよ」
「私もあれが、それほどイイとは思わないんだが」
小声でボソボソと話し合いつつ、ちらっとそちらに目をやり、また逸らす。
「あっちの方は、満更でもない感が出すぎてると思わんか!?」
おかげで見ていられない。
この小さくそれなりに心地良い洞に、強烈な居たたまれなさを醸し出しているのは、目の前の2人である。
エイレンが熱心に魚をほぐしては、ルーカスの口にせっせと運んでいるのだ。ルーカスは手足を縛られたまま、頭をエイレンの膝の上に乗せられている。
先程の水泳の寒さが完璧に吹っ飛んでしまうほど、アテられる光景ではないか。
たとえエイレンの目が、冷徹にルーカスの食欲のほどを観察しているだけだとしても。
「見ていられないね」ハルサも同意した。
「ルーカス君かわいそうに」
「はあ?」
「だから、あんな風に『お預け』されたら、たまらないよね」
「ふうむ」
腕を組み考え込むキルケ。『お預け』に見えるのか、と思う。人の感性はさまざまだ。
食事が終わると、エイレンはルーカスに水を飲ませ、木の枝の先を細かく裂き柔らかくなるまで叩いて作った歯ブラシを、口にグイッとつっこんだ。
真剣な表情で、丁寧に歯を磨いていく。
「やっぱり見ていられん」「だな」
感性は違えど、意見は一致するキルケとハルサであった。
「それはそうと、あんたは食べないのか?」
人には食べさせつつ、エイレン自身は水しか口にしていないのだ。
「今は断食中なのよ」
神力の回復を優先させている、と説明されてキルケは曖昧に頷いた。
神魔法については以前に使うところも見たが、詳しく聞いているわけではない。なぜここで断食してまで神力の回復とやらを急いでいるのだろうか。
ここにきてからエイレンを遠く感じる。初めて会った時よりももっとワケの分からない、不思議な力を持った聖王国の女。
次に聖王国に着けば、2度と帝国に戻ることはないと聞いている。だから、無かったことにするのだろうか。帝国で過ごした日々を。
戸惑うキルケの目の前で、彼女は当然のようにルーカスに口づける。ルーカスがそれを受け入れると、しばらくして彼の身体からは黄金色の光が放たれ、空気に溶けるように消えていった。
「今のはなんだい?」
「こうして結界を補強するの」
ハルサの問いに、今はルーカスさんを核にしているから、と説明するエイレン。
1度張れば3日は持つだろうと考えていたが、人の持つ神力ではそこまでもいかず、小まめに力を注ぎ込まねばならないのだと言う。
しかし、こうした状況を生真面目な友は『美味しい』などとは思えないだろう。むしろ生殺し、と同情を禁じ得ないキルケであった。
「あんたはそれでいいのか」
ルーカスに尋ねれば、力強い頷きが返ってくる。
「問題ない」
その眼差しは、あらゆる迷いから解き放たれたかのように澄んでいて、キルケは内心でそっと呻いた。
うん何か知らんがやはり遅かったみたいだ。
「それはそうと、今後どうする?」ハルサが現実的な話題で、物凄く微妙になった洞の空気を変える。
「すぐに船出するか、ルーカス君の回復を待つか」
「夕方まで待ちましょう」エイレンが淀みなく応えた。
「水を補給したら、早めに舟に移動しましょう。潮が満ちれば押さなくても舟は動く」
「夜の航海になるのか」キルケが少し難しい顔をする。
「大丈夫よ」と、軽く請け合うエイレン。
「一晩中、月が出るはずだし、月が出るまでは天極星を左手に進めば良いわ」
「天極星か……見つけにくいな」
ハルサが困ったような顔をする。天の同じ位置に座して動かない星は重要な標ではあるが、その光は暗く、慣れていてもしばしば見失ってしまうのだ。
「大丈夫よ」エイレンがくすり、と笑ってまた軽く請け合った。
「見つけ方なら、ルークさんが知っているわ」
日が西に傾く前に、4人は早々に出航の準備を終えていた。もともとが手荷物などほぼないのだ。
苦労したのは、舟に水を積み込む作業と、縛られたままのルーカスを運び込む作業だけである。
「自分で歩けます」
縛めを解け、とルーカスは要求したが「せっかく縛ったのに」とエイレンに却下された。キルケとハルサに運ばれつつ「すみません」と恐縮する歯軋り男。
「ああ構わないよ」「あんたのせいじゃないからな」
軍人重いなぁ、と思いつつも、口々に言うハルサとキルケである。
「しかしそろそろ解いてやれよ」
キルケの言葉に、エイレンは眉をひそめた。
「まだ熱があるのに無茶されたくないわ」
驚いたことに、彼女なりに心配しているらしい。
ハルサが黙ってルーカスをつつき、ルーカスが口を開く。
「無茶しませんよ。約束します」
エイレンはそれでもしばらく、蜜色の瞳で疑わしげにルーカスを見ていたが、やがて頷き、何か口の中で呟きながら手を軽く振った。
ルーカスの手足を縛っていた黒い鞭が、跡形も無く消える。やっと自由になった手足がぐっと伸び、それからまた舟底に静かに横たわった。
再び眠る男を囲んで、3人は静かに話ながら潮を待つ。
「軍船の方は大丈夫そう?」
「ああ。反乱さえ起きなきゃな」
「あの『長官』を困らせようと思うヤツがいるか?」
「だな」
顔を見合わせてにやっとするキルケとハルサ。
「この分なら今日の夕刻にはゴート港に着くだろうよ」
「良かったわ」エイレンは微笑んだ。
帝国と聖王国を結ぶ船は、必ず無事でなければならない。帝国からの支援は始まったばかりだ。まだ、対等に取引できる立場ではないのである。
もし1度でも失敗があれば、いくら少年皇帝の友情と多少の打算を持ってしても、国交は事実上、断たれてしまうだろう。
それだけは、ならない。
この細くまだ心許ないつながりだけが、聖王国の未来にとって唯一の希望なのだ。
神によって手厚く護られ、そのために核となる国王の存在が必須な国。内乱など起こりようがない。
反抗しなくてもじゅうぶんに生きていける。反抗すれば、滅亡しか待っていない。
それは、どんな支配よりも有無を言わさない支配だ。その力の元で、人々は考えること忘れ、声を上げることを忘れ、望むことを忘れ、挑戦することを忘れた。
この国の者たちは、もし神が死ねば一緒に滅びるつもりなのだろうか。
違う、と思う。
1日1日、生きることに懸命な彼らなら、やがて気付くはずだ。
帝国から吹く、風の輝きに。
気付けば、変わらずにはいられないはずだ。
どんな手を使っても、そこへつながる道を作る。誰のために、何のために、とは考えない。
そんなことは、どうでもいいのだ。
「あんたにしてはえらく親身に心配しているんだな」
船縁でリズムを取りながら、キルケがおかしそうに言う。
「あら、だってあなたのリュートも軍船の中でしょう。もし沈んでしまってはもったいないわ」
エイレンは懐かしそうに目を和ませた。
「着いたらぜひ『青き花咲く野の乙女』を歌って下さらない」
「じゃあ私は『気ままな妖精』を頼むよ」
ハルサがワクワクと口を挟み、いつの間にか目を開けていたルーカスが、ボソボソと付け加えた。
「『ティビス、黄金の流れよ』もだ」
「了解です、紳士淑女の皆様方」キルケは上機嫌に笑い声を立てた。
そして、周囲が薄暗くなる頃。
静かなざわめきとともに潮が満ち、舟はぐらりと傾いた後、港を目指し、波を蹴って動き出したのだった。




