22.お嬢様は救助される(1)
大海原を、1艘の小舟が渡る。
空を覆っていた雲は明け方には散り、暑い程に突き刺さる太陽を海風が散らす。その海風は日に焼けた帆を大きく膨らませ、舟を快走させている。
「風の四神か海神か、はたまた旅の神のご加護か」
キルケは道標石と海図を確かめつつ口笛を吹いた。
「このまま潮と風に流されるだけで島に着くぞ」
「幸運の女神の方かもしれないな」
ハルサが主に帝国北部で信仰されている女神の名を持ち出して笑い、櫂をぐいっと漕いで大きめの波を避ける。
時化の夜に海に落ちた2人の友を探してここまで来たが、考えれば考える程に無謀な行動であった。潮の流れが逆であったならば、島にたどり着く前に食糧か体力かのどちらかが尽きているかもしれない。
が、キルケもハルサも、そこまで考えてなどいなかった。
「運が悪けりゃ港へ戻るしかなかったが」
「なんとかなりそうで良かったね」
つまりは「なるようになるさ」というノリなのである。何しろ捜索対象のうち1人は殺しても死ななさそうなS女。もう1人はうっかりすると死ぬかもしれないが、まぁ多分大丈夫だろう。
「あいつ大丈夫かな」
そんなもう1人をキルケがイヤな笑い方で気遣えば、ハルサも声を上げて笑う。
「大丈夫でなくても、それなりに幸せだろうさ」
監督官の説明によると、エイレンは聖王国の不思議な力で時化を治めたらしい。首を若干ひねり気味にしつつも「神魔法の『結界』とやらがまだ有効なのが生きている証拠!」と船長を説得にかかっていたのだ。
そして、キルケもハルサも、何となくそれを信じている。諦めるのは、全ての可能性が無くなってからでも遅くない。
太陽が中天に差し掛かる頃、島影が見えた。
「いくぞ」
ハルサとキルケは櫂を1本ずつ持ち、声を掛け合いながら漕ぎ出す。
舟はどんどんと島に近付き、浅瀬に底触して止まった。黒い細かい泥が舟を柔らかく受け止めている。
「おっと大変だ」キルケがおどける。
「座礁しちまった」
「島の人間に助けを求めなければね」
「いるかな」
「きっと、いるさ」
呑気に掛け合いを続けながら舟を降り、砂浜に向かって歩く。
「歩きづらいな」ハルサが顔をしかめた。
1歩ごとに足が柔らかな泥にとられ、それを引き抜くようにして前へ進む。
しかし、いくら進んでも進んでも、砂浜がいっそう遠くなるような気さえする。
「もういっそ泳ぐか」
キルケがシャツを脱いで頭に縛り付けてザブッと波をかきわけ、ハルサがそれに倣った。
水の冷たさが全身を侵し、波底へと引き込もうとする。黒い底泥の上を光が波の形にゆらめき、意識を惹きつける。下へ、下へと。
一見、安全そうに見える浅瀬にさえセイレーンの魔力は届いているのかもしれない、とキルケは思いつつ、完全に沈む直前に脚を揃えて打ちつけるように水を蹴り、進む。
「うう寒いっ」
先に砂浜に上がったハルサがくしゃみをし、キラキラと輝く砂を抱くようにうつ伏せになった。続いて海から出たキルケも同じように砂の上に寝転がる。
黒ずんだ砂は太陽の熱をよく取り込んで、冷えた腹を温める。同時に、風が濡れた背中から体温を奪う。
「結局、寒いね」
「もういっそ砂に埋もれるか」
「おぉなかなか名案」
じゃあどっちが先か、ジャンケン、と2人が手を上げた時。
彼らの手の間の砂を、形の良い足がざっ、と踏み付けた。
「あらあら。こんなところにもイキの良さそうな獲物が」
聞き慣れた、凛と澄んだ声……が、幾分、野生化して舌舐めずりをしそうな響きを帯びている。
(このまま喰われるかも)
一瞬、わざわざ捜索に来たのを後悔するキルケであった。
「やぁ」ハルサがのんびりと手を上げてみせる。
「何か羽織るものはないかな?秋の水泳大会の後で、寒くて仕方ないんだが」
「そんなものはないけれど、火ならあるわ」
いらっしゃい、と先に立って歩き出すエイレンだったが、ふと思いついたように軍服のチュニックを脱ぎハルサに投げてよこす。
「あなたも寒いかしら、キルケさん?」
「いややめとけ」
シャツに手をかけて脱ごうとするのを止めるキルケ。
どこにいようが絶対に死なない女だとは思っていたが、野生児化しすぎである。
「あら、わたくしはこの程度の気候なら平気よ?」
「いやその親切心だけでもうじゅうぶん、温まった気がするから!」
救済ストリップなんてされたら、あいつが気の毒で見ていられない状態になってしまう、たぶん。
「ルーカスは?」
「それがね」きゅっと眉をひそめるエイレン。
「熱を出してしまって寝込んでいるわ。きちんと服を脱いで乾かさないから」
結界の核になっているせいで精霊魔法もよく効かないのよね。
ブツブツとワケの分からないことをぼやいているが、キルケとハルサに理解できることはただ1つである。
(やっぱり、耐えきれなかったんだな。イロイロと)
案内された小さな洞では、火があかあかと燃え、ルーカスが横たわって眠っていた。
その手足には、黒い鞭が絡み付いている。
(ついにヤッちまったか)唖然としつつもちらりとそう考えるキルケ。
「これ『寝込んでる』んじゃないよな?」
「あら、どう見ても寝込んでいるわよね?」
エイレンが捕ってきた魚に串を刺し、火の周りに並べた。
「どう見ても、無理やり縛られてフテ寝、だろ?」
「だって熱が下がるまで寝てなさいと言ったのに、ダダこねるのだもの」
お子様かしら、とブツブツ言いながらルーカスの額に手を当て精霊魔術を唱える。しばらく反応を覗っていたが、やがて首を傾けてふうっと溜め息をついた。
「全然効かないわ」
やはり神魔法と精霊魔術の相性は良くない。
精霊魔術で出した鞭が意外にも使えたから、治癒の方も繰り返せばもしかしたら、と思ったのだが、そううまくはいかないらしい。
溜め息に反応したかのように、ルーカスが目を開けた。
「エイレン。帰ってたのか」
「わたくしだけではなくてよ」
言われてハルサとキルケに気付き、若干気まずそうな顔をする。
「いやぁ邪魔して悪いなぁ」
まさか、こんなことになっているとは思わなかったものだから、と、にやぁり、とするキルケ。
「そうだね」とハルサも頷く。
「こんな事態だと分かっていたら、わざわざ探しに来なかったんだが」
本当に申し訳ない、と真顔で謝られ、ルーカスは眉間に深いシワを作った。
「どういうことですか」
「いやだって、縛り付けられて甲斐甲斐しく世話を焼かれてるだなんて」
「別に美味しいとか思っていませんから」
「わかってるさ」キルケがしたり顔でウンウン、と首を何度も縦に振る。
「もうこのまま死んでもいいとか思ってるんだろ……あれ?」
期待していた常日頃の反応の代わりに、絶句してしまったルーカスを見て、これ以上つついてはいけない、と思い直す。
(まさか致命傷とはな)
一層あわれではあるが、ほんの少しばかり、羨ましくもある。
そうこうしているうち、魚の焼ける匂いが狭い洞いっぱいに満ちた。




