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20.お嬢様は時化に遭う(2)

薄暗がりの中に響く、ぎぃぃぃっと軋むような音と大きな揺れ。


「横からのうねり」と顔をしかめて呟き、エイレンは身を起こした。


ゼフィリュス港を出て4日目の未明である。


順調にいけば、夕方までにはゴート港に着く見込みだったが、この瞬間からそれは確約できないものとなってしまった。


急な時化だ。


右へ左へと揺れる廊下を、着の身着のままの軍服にぶつぶつと洗濯代わりの精霊魔術(まじない)を唱えつつ渡り、船底の漕ぎ手席へと向かう。舵に取り付いていた監督官が、黒い海面を睨み付けたまま短く言った。


「早いな。助かる」


その間にも、もう一度大きな横波。波飛沫が頬に飛び、潮の匂いが狂暴なまでに濃さを増す。


「ルークさんは?」


船縁から漕ぎ手席に入った海水き出す作業を手伝いつつエイレンが問うと監督官は大部屋の方を顎で指した。


「まだ寝てるヤツらを起こしてもらってる」


「寝ていられるものなのね」


「昼も重労働だからな」


船はギィギィと音を立てつつ、激しく揺れる。


監督官は、舵を切って船の向きを変えようと躍起になっている。しかし激しい波の中、舵だけでそれを行うのは難しいようだ。失敗する毎に、船乗りの表情はどんどんと冷たく研ぎ澄まされていく。


ようやっと漕ぎ手たちが揃うと、早く席につけ櫂を流されるなしっかり漕げ、と矢継ぎ早に指示が飛んだ。


「急いで方向を変える」


横からの大波はなるべく避けなければならぬ。受け続ければ、大型の軍船であろうとやがては転覆してしまうかもしれないのだ。


櫂の力が加わったことで、船尾は先程より明確にその位置を変えていく。しかし、斜め後ろからの大きなうねりに船は再び、軋んだような音を立てて傾き、漕ぎ手たちは頭から水をかぶった。


「クソッ」エイレンの左隣についた漕ぎ手が舌打ちをする。


「ゴート沖で時化だなんて!」


「珍しいのか?」


右隣に座ったルーカスが櫂の端を掴みつつ尋ねると、不機嫌な叫びが返ってきた。


「初めてだっ」


激しい波と船の揺れ。


櫂を動かすのは普段にも増して重労働だが、皆必死に取り付き、全身を動かす。


やがて、船尾が波とほぼ直角になる。揺れがやや鎮まり、漕ぎ手たちの間にはほっとした空気が流れた。


「長官」エイレンが監督官のブテノーに呼びかけると、海面を睨み付け舵を操りつつ「なんだ?」との返事。ちなみに監督官(ブテノー)の地位は『長官』などではない。しかし、そう呼ばれて満更でもないことは皆の知るところである。


「追い波ですわね」


「この嵐を抜けるまでだ。抜ければまた、元に戻す」


この船なら少々の高波でも大丈夫だ、と付け加えられた説明に、そこはお任せします、とあっさり言い切るエイレン。


「ただし2点の問題については、どこまでご存知かしら?」


「どういうことだ?」


「1つは前方に島がある可能性」


ゴート沖には聖王国軍の訓練に使われる島がある。島の周囲は遠浅になっており、水泳訓練には向くが船には嫌がられる。


今この船がどこまで流されているのかは把握できていないものの、もし島が近ければ問題だった。島の付近で強い追い波を受けた場合、上手く避けきれずに座礁してしまうかもしれない。


「そうだったな」


エイレンの説明にブテノーはやはり海を見詰めたまま、しかし真剣に頷く。


「見張りによく注意させよう……もう1点は?」


問えば、ゆっくりとした口調で問い返される。


「これは、本当に『嵐』でしょうか?」


薄暗い未明であり、しかも海水で上から下までずぶ濡れ状態。経験したことのない時化に、皆がうっかり『悪天候』と信じ込んでいるが、実は風雨がそれほど酷いわけではない。


ブテノーはハッとしたようだった。


「海が本来の姿に帰っている、とでもいうのか」


ゼフィリュス~ゴート航路が荒れることが『有り得ない』と認識されているのは、千年の長きに渡り聖王国の神が護り、穏やかな状態を保ってきたからだ。


それは当然のように受け止められてきたが、もともとそうであった、とは限らないのではないか。


その可能性はある、とエイレンは頷いた。


「伝承では、聖王国はもともと、人の住めぬ荒れた地ですのよ」


「しかしなぜ今になって」


「それは申し上げられませんわ」


涼やかに応えつつ、エイレンは結論を急ぐ。


「問題の2点目は、この時化がいつまで、どこまで続くか分からない、ということです」


漕ぎ手たちの間から「そんなっ」「ウソだろ!?」と口々に小さな悲鳴が上がる。驚愕の表情を浮かべる者、そんなはずがあるか、と嘯く者……さまざまな反応の中で、ブテノーは冷静だった。


「それで、何か策はあるんだろうな」


この娘ならば、対応できない問題について、いたずらに言及するようなことはしない。


そんな彼の思惑を汲んだかのように「ええ」とエイレンは頷いた。


「この辺り一帯に、神魔法の結界を張ってみましょう」


あくまで暫定措置だけれど、と軽やかに付け加える。ブテノーはちらりと彼女に目を遣り、再び海に戻した。


「すぐに頼む」


「わかったわ」


漕ぎ手の交代を頼み、エイレンとルーカスは甲板へ続く階段を上る。リズミカルな軽い足音を崩さないまま、エイレンはルーカスに説明した。


「聖王国の神は守護がとても苦手で、その子孫が使う神魔法も同じ性質を持っているの。結界は必ず人を核にしなければ張ることができない」


聖王国に伝わる神魔法はもともと、暴力的で攻撃的な禍神(まがつかみ)の力である。


「だからルーカスさんを核にするわ」


「あほか勝手に決めるな」


ルーカスもまた早足を緩めないまま、顔をしかめる。


「痛くもかゆくも何か起こったりもしないのよ?少し死ににくなるし、結界内なら自由に動けるし、人の張った結界など神力を注がれなければ3日ほどで消えるわ」


「それなら自身を核にすれば良いだろうが」


「あら知らないの?」エイレンは足を止め、ルーカスを振り返って微笑んだ。


「守護の力は、己以外の人間のためにしか発揮できないのよ」




雨がパタパタと甲板を打つ。追い波で船は一見、順調に快走しているが、実は舵を取られる危険を常に(はら)んでいる。

重心を安定させるためだろう、メインマストが切り倒され無惨な姿で横たわっていた。


人気のない甲板の中央に立ち、エイレンはルーカスの両手をとる。


「始めるわよ、ルーカスさん。動かないで」


ルーカスが無言で頷いた。


捕らえられた手から、エイレンの体温が伝わってくる。いつもはひんやりと冷たい彼女の手が、今はほのかに熱を帯びて発光している。


「わたくしの額に、額をあてて」


言われた通りにすると、蜜色の瞳が間近でまた微笑んだ。その唇から、囁くような詠唱が漏れ、古の言葉の連なりが光となって2人の周囲に円を描いてはふわりと浮かんで天上へと消えていく。


長い詠唱が終わると、海は普段慣れたゴート沖らしい穏やかさを、完全にではないが取り戻していた。


「どうやら成功したみたいね」


エイレンはルーカスの額と手を離し、甲板の縁に出て海面を確認する。


波はまだ時々、甲板に飛沫がかかる程に高くなるが、破壊的な荒々しさは無くなっていた。大きなうねりがこなければ、監督官(ブテノー)の腕なら、なんとか乗りきれるだろう。


「ルークさん、ありがとう」


ほっとして息を吐いた時、不意に目眩を感じた。


身体が、ぐらりと傾く。


その下は、無限に広がる暗がりだ。


「エイレンっ」


ルーカスが慌てて手を伸ばすが、一瞬で間に合わない。


神魔法の名残でまだかすかに発光している細い身体が水面にぶつかって小さな水飛沫をあげ、その上に黒い波が覆い被さる。


助けなければ。


そう思う前に、身体が動く。


ルーカスは、エイレンの後を追うように海に飛び込んでいた。

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