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20.お嬢様は時化に遭う(1)

ポツポツと落ちる雨が、暗い波間に細かな丸い模様を描く。海を低く覆う黒ずんだ雲の下で、停泊した船が所在なげに揺れる。普段は賑やかなゼフィリュス港も、こんな朝は静かで、どこか落ち着かない。


父を最後に見送った朝の天気もこんなだったな、とギロは思い出していた。小雨を押して漁に出るのは、この辺りの漁師たちにとって普通のことだった。母もまだ幼かった姉と自分も、信じ切って送り出したのだ。


午後にはまた、父がこの港に戻ってくると。


時折こちらに向かって手を振りつつ舟を滑らかに操って岸辺に近付く父の顔は、その日によって、誇らしげだったりしょげていたりしたものだ。最高に機嫌が良い時には、遠くから大きな口が『大漁』と何度も動く。


今日はどの顔だろう、と思いながら、ギロは舫い木のアラベルスの下で父を待つ。まだ舟に乗せてもらえないほど幼い彼の仕事は、魚の陸揚げや舟の清掃の手伝いだった。


だがその日は、いつまで待っても父は帰らず、ギロは不安で泣きそうになっていた。これまでそんな心配をしたことなどなくても、海の傍で暮らす者なら誰でも知っている。


沖に出た者が帰ってこない時には、最悪の事態も覚悟しておかなければならないのだ、と。


知っていても、不安で心を押し潰されないように目を背ける。いつか必ず親しい者たちを奪いにやってくるそれを、まやかしの希望で、見えないように覆い隠す。


もしかしたら、すごい大物と格闘しているのかもしれないぞ。きっとそうだ。とギロは自分に言い聞かせる。


そのうちきっと、満面の笑みを浮かべた父の口が『大漁』の形に動くのが見られるに違いない。


母と姉は波の静かな入江で海に潜り、貝や海草をとっている。そちらに行って彼女らを探し、泣きつきたい。だけどそんなことをしたら、心の奥底に隠した不安が、一気に本当になってしまう。


そんなことは絶対にない。あってはならない。きっと今日は、今まででいちばんの大漁なのだ。



―――何度も何度も自分に言い聞かせていた時の気持ちを思い出せば、何十年の歳月を経た今でも苦しくなってしまう。


立っている足元はすでに崩れていたのに、それを認められずに必死になって流木にしがみついていたようなものだった。漂流し始めているのにも気付かないフリをして、この不安の分だけの栄光が必ず得られるのだ、と信じ込もうとしていた。


それは後で思えば、父がもう生きては帰らないということを受け入れて泣いた時よりも、ずっと辛いことだった。ともすれば湧き上がってくる絶望をウソくさい希望で塗り固める作業は、疲れる。


父が帰ってこなくなった後の生活は苦しかった。母が、自分と姉を食べさせるために、何でもしてしまうのが辛かった。


単に食い扶持を減らすだけでなく、出世のチャンスを掴もうと南都に出た。あらゆる物が揃う、きらびやかな街で最初に手に入れた職は肥料製造員だった。体力と忍耐力が必要で、かつがつ食っていけるだけの職業。そして、何年待ってもそれ以上の職にはつけなかったのだ。


母や姉に買ってやりたいと思った絹の肩掛けや色ガラスの首飾りは、何年も何年も眺めるだけで終わってしまった。


恵まれた者たちだけのためにあるような世の中。小さな小さな憎しみは埃のように少しずつ、うっすらと、だが確実に心の中に積もっていく。


この世でいちばん哀れな者が、恵まれた者から多少奪ったところで、どの神が罪に問うというのだろうか?神々の目からすれば、哀れな者は何をしても哀れなままであり、一方で恵まれた者は何をされても恵まれ続けているというのに。


世間が罪に問う?恵まれた者たちが作った世間の基準などクソクラエだ。


こうしてギロは、豊かで華やかな南都で、いつしかスリ師として暮らすようになっていたのだった―――恵まれているはずの女の中に、自分と同種の、だがそれよりも何十倍も大きな怒りと憎悪と虚無を見付けるまでは。


彼女が呼んだ雷に打たれた時に確かに彼は聴いた。「許さない、皆滅びるがいい」という血を吐くような叫びを。しかし、そんな怒りや憎悪よりも恐ろしかったのは、その先にある虚無だった。


人を傷付けようとも何を破壊しようとも、痛みも後悔も、歪んだ悦びすら感じない。どんなことにも無感覚な、空っぽの心。


歪んでいようとせめて悦びなりとも感じるのであれば、いつかは飽きて止まるかもしれない。けれど、全てを破壊し尽くしても、満たされることのない虚無を止めることは、どうしたらできるのだろう?




以来、南都で心の底にうっすらと怒りと憎悪を積もらせつつ人から奪う、という生活ができなくなった。その生活の手触りは、果てしない虚無とよく似ており、いつか呑み込まれてしまう、と思うと恐ろしくなったのだ。


それが、ギロが故郷に戻った理由だった。戻ってみれば家はすでに人手に渡り、母や姉の行方も知れなくなっていたが、幼い頃から親しんだ舫い木だけは、そのままだった。


心の拠り所が1つでも残っているなら、それで良しとしよう。


そう決めて、ギロは少しずつ、穏やかな暮らしを取り戻していったのだ。




暗い雲と海の間で、舫い木の『美しい翼(アラベルス)』は、ところどころ、はっとするような真紅に彩られ始めている。雨に濡れても消えないこの篝火を目印に、海で亡くなった船乗りの霊がここに帰ってくる季節はもうじきだった。


しかし、この場所に立っても、父の声や温もりを再び感じられたことなど全く無い。霊が帰ってきているなら、1度くらいそのようなことがあっても良いだろうに。


それでもギロは毎日この場所を訪れる。他愛ないが、もう2度とは得られない父との想い出は、この舫い木の元にあるのだ。


「あと10日も遅ければ、見頃で祭りも開かれますのに残念でしたね」


以前もこの場所に案内したことのある、客たちにそう声を掛ける。


「なあに、またきっと機会はあるからね」


彼らに新しく加わっていた、褐色の肌の男が穏やかに応えて、細い黒ずんだ幹を撫でた。


「そうだな、来年あたりにはまたここに帰りたいもんだな」と吟遊詩人が言えば、金の髪の女が憮然とした顔をする。


「そんなに簡単に逃がすものですか。1年で帰りたいのなら、まぁせいぜい頑張って働くことね」


言葉つきは相変わらずキツいが、今の彼女からはあの恐ろしい虚無を感じない、とギロは思う。彼女もまた、そこから自由になれたのだろうか。そうだったら良い。


「持って行って下さい」


ギロは客たちに、舫い木になった実を摘んで渡す。『美しい翼(アラベルス)』の名の由来となっている、羽の生えたように見える可愛らしい紅い実だ。


「アラベルスの花言葉は『あなたのことを心に刻む』です」


「よく棺桶に入れたりしますね」


南都で『守備隊の歯軋り補佐官』として密かに有名だった青年がボソボソと付けた、言わずもがなの補足に苦笑する。確かに帝国の葬儀でアラベルスの枝は人気だが。


「この時期に来られるお客さんにお渡ししてるんですよ。またご縁があるように」


「そうね、かなうならば、また」


エイレンは紅くなった葉先に目を遣りつつ、そっと呟いたのだった。

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