18.お嬢様は南から旅立つ(2)
「やあいらっしゃい」
夜半過ぎ、南の空から差し込む月の 光とともに破邪樹の住まいに訪れた客人を、ハルサは明るい声で迎えた。
「まさか本当に来るとは思わなかったな」
「あらあなたがお誘い下さったんじゃないの」
不思議そうに返されて苦笑する。
「普通は誘われても来ないものなんだ。護衛は?」
「妖精さんと一緒に寝かしてきたわ。あの人、最近ずっと仮眠しかとってないから」
精霊魔術でぐっすり、と説明されてまた苦笑する。
「普通は嘘でもその辺で見張ってる、というものだ」
「あなた相手に?」
また不思議そうに返すエイレン。
「好みでない女を襲うほど不自由してらっしゃらないわよね」
「いいや女性は全員好みだが?」
「嘘おっしゃい」
クスクスと笑って、丸顔で陽気で情熱的だけど後腐れのないタイプ、と言い当てられ一瞬絶句する。
「よく観察してるな」
「だからナンパに気軽に応じてくれる方しか相手にしないのよね。今日は?」
「ここ最近はご無沙汰してたんだ」
「あらそう。ご病気?」
「毎日同じ魚ばかり食べて胸焼けが多少」
親しくなければ嫌味にも聞こえる軽口を「あらお気の毒」とスルーし、エイレンはにっこり両手を差し出した。
「それで肝心のローゼル酒は?いつ、出していただけるのかしら?」
昼はギラギラと眩しい日光と照り返しで、木陰を選ぶようにして歩かねば厳しいナイディス川のほとりも、夜はすっと熱が引き、心地良い微風が吹く。月の光にぼんやりと白く浮かび上がる川原のそこかしこには、のんびりと歩く者や腰を降ろして月を見上げる者の姿があり、いかにも涼を楽しむ、といった風情である。
どこか遠くで太鼓の音と歌声が聞こえる。音楽と踊りで夜を明かそうとでも計画している連中だろう。
「この辺がいい」
ハルサが選んだのは浅瀬の岸辺だった。サンダルを脱いで水に足を浸すと、ひんやりとした感触が心地良い。エイレンが隣でやはり足を水に浸すのを眺めつつ、酒を銀の杯に注ぐ。
「あらきれい」
透き通った真紅の液の底から月の光が反射し、銀色の地に赤い光が波のようにゆらめく。エイレンの賞賛にハルサは器用に片目を瞑ってみせた。
「君にぴったりだろう、月女神様」
「ああそうやって口説くのね」
「いやそっちは何十年もご無沙汰かな」
笑みを含んだ言葉にやはり笑みで返すと「重症ね」とクスクス笑われる。
「ずっとこちらで暮らす気なら、大事な人くらい作ってもバチは当たらないでしょうに」
「君にそんなことを言われるとは意外だな」
聞くのも久しぶりの台詞である。こちらに移住したばかりの頃は親切な連中から再三言われたものだったが。
「そう?」エイレンは首を傾げる。
「わたくしも最初はよく分からなかったけれど、庶民はそうやって暮らすもののようよ?一部の貴族も」
「人によるけれどな」
今夜は苦笑がよく出るな、とハルサは思う。大事な人がいる、あるいは大事な何かがある。その幸福を知らないわけではないが、幸福は持てる分だけ代償を求めるものだ。それがハルサには煩わしい。
今だって、ここしばらく共に夕食を囲んだ仲間が明日には去ってしまう、というだけで寂しいのだ。年を取るに従って、寂しさや悲しさはより深く胸を刺すようになってきた。
「年を取れば取るほど、身軽にしていかないと。色々なものに捕まると、踊れなくなってしまうだろう」
「それほど踊りたいものかしら」
「ああ、死ぬまで踊っていたいねえ」
遠くの歌に合わせて足でリズムを取り、水を跳ね上げつつ真紅の酒を口に含む。
「だったら最初からダンサーになれば良かったのに」
「男のダンサーはウケないんだ。たまにウケたとしても微妙なオマケがつくらしいしな」
「火山灰コンクリートの技師だって、それほどウケなかったでしょう?」
その通りだ。ハルサがその技術を学んだ頃は、火山灰は既に無くなっていく見通しで、どちらかといえば代替品の研究の方が盛んだった。
「なぜ学ぼうと思ったの?」
蜜色の瞳に真っ直ぐに射貫かれ、ハルサはまた酒で口を湿らせる。
「この街の白い建物は、この川原の土でできているんだ……組成が火山灰に似ている、と言われていてね」
両親も親戚もいなくとも、オルトスはハルサにとって唯一の故郷だった。いつかは帰ろうと、学んだのが火山灰の扱いだったのだ。
「この街のために役に立ちたかった?」
「いや」首を横に振り、考え込みつつ口をゆっくりと動かす。足元で暗い波がゆらりとゆらめいた。
「役に立てば、受け入れてもらえるんじゃないかと思っていた……でも、浅はかだったな」
「思ったようには役に立たなくて?」
「いや、最初、めくらめっぽうに役に立とうとしたことがさ」
技術を学んだ時の期待は、いつの間にか『役に立たなければ受け入れてもらえない』という焦りに変わっていた。オルトスでも昔からの地元民は木やサトウキビの廃材で作った家で暮らす。技師としての需要は思ったようには無かったのだ。
なんとか必要としてもらおうと、がむしゃらに動き回った。結果がどうにも芳しくなく、諦めかけた頃にやっと気付いたのだ。この街で受け入れられるには、技術など必要なかったということに。
破邪樹の下に響く太鼓のリズムに乗って踊ること。急なスコールで雨宿りする者のために住処を開けてやること。買い物につけられる気前の良いオマケに心から礼を言うこと―――人と共に楽しみ、気前よく与え、喜んで受け取ることが、この街では役に立つことより重要なのだ。
そして馴染んでいった頃に、技術はやっとぼちぼちと役に立つようになった。
ハルサの言葉にエイレンは遠くの水面に映る月の光を眺めつつ、黙って杯に口をつける。ややあって、困ったわ、と言った。
「聖王国であなたがどれだけ必要とされているかをアピールして、説得する予定だったのに」
「それも昔なら、魅力的な誘いだったと思うがね」
ハルサはまた苦笑する。
「だが、この年になると『役に立つ』ことや『必要とされる』ことは阿片と同じだな」
そのことによって得られる生き易さは、やがてそれが断たれることによって、さらには己が身が人の荷物にしかならなくなることによって溺れてしまうであろう虚しさや苦しさを増長させるのだ。
「それよりこう言えばいいじゃないか。『あらわたくしとの約束を忘れたとは言わせないわよ』と」
からかい気味に言えば、エイレンはほのかな月影の下でもはっきり分かるほどに眉根を寄せる。
「あのような粗雑な手で罠にハメたつもりになるなど、わたくしのプライドが許さないわ」
彼女らしい友情の表現だ、とハルサは今度は苦笑いでなく微笑んだ。年を取るとやはり良いことも多いな、と思う。ひねくれた若者も可愛らしく見えるのだ。
「火山灰の利用にあたり、実践で気になりそうなところをもう少し詳しくメモしておいてあげよう。発つ前に受け取ってくれ」
告げると「あらそんなに役に立って下さっていいの」とまたひねくれた言葉が返される。
「当たり前だろう」
この街の人間は、親切で気前が良いのだ。そう言うと、今度は素直に「ありがとう」とセレナ・アエスタスの花が開くような笑みが返ってきたのだった。




