14.お嬢様はデートをする(1)
南都はティビス運河沿いに広がる貧民街の入口に、1組のカップルが佇んでいた。年の頃12、3の少年少女である。少年の方は整った顔立ちに帝国北部民に一般的な茶色の髪と薄青の瞳だが、少女の方はこの辺りでは珍しい色合いだ。
漆黒の髪に南方の血を感じさせるアメジストの瞳、日焼けのようにも見える、ほんのわずかに褐色がかった肌。くっきりとしたアーモンド型の目は長い睫毛に彩られ、通った鼻筋と常に微笑んでいるような口許がやや大人びた印象を醸し出している。
着ているのは絹のブラウスと長いスカート。上からエプロンを掛けた、裕福な家のお嬢さんといったスタイルである。一方の少年は、ぴったりとしたズボン、丈の短めのチュニックにマントという従者の服装だ。マントの襟元には、皇家の紋章である双頭の鷲がさり気なく刺繍されている。
「早く行きましょうよ、ティルス」
少女が振り返って促し、少年は困った顔で首を横に振った。
「何度も申し上げますが、ここはアナスタシア様がお入りになるような場所ではありません」
アナスタシアは少し前まで南方の離宮にひっそり棲まっていた皇帝陛下の異母妹である。聖王国との婚姻が半年後に迫ったために王都は宮殿庭園内の離宮に居を移し、皇太后やお付きの侍女たちから礼儀作法その他のレッスンを受ける日々を送っているのだ。
しかし、生来それだけで修まる性格ではなかった。離宮を抜け出しては王都や南都を散策する毎日である。特に今日は「誕生日だから冒険したい」とねだられ、ティルスは普段なら絶対に止めている貧民街などに来てしまっているのだ。自身もここの出身とはいえ、皇女がお忍びで来て良い場所ではないことは分かっている。
ティルスの忠告に皇女は不本意そうに頬を膨らませた。
「あら!聖王国の方はいつも通っておられたと聞いたわ」
「あの方は特殊です」
聖王国の方、と聞き、感謝というには少し複雑な思いがティルスの胸をよぎる。彼女のおかげで死にかけていたところ生き延び、その縁から皇女殿下の従者となった。しかし、たった1人の兄は彼女と関わったせいで亡くなったのだ。
それをあのひとは隠すことなくティルスに告げたが、涙1つこぼさなかった。原因の大半が己にあると説明しつつ、謝りもしなかった。若干詳しくその内容を聞いても「むしろこっちが被害者」と言わんばかりだった。
なのに「復讐なさるならどうぞ」とレイピアを手渡され、ああそうか、と思ったのだ。世の中には簡単に泣いたり謝ったりできない人種がいる。責任がある立場であったり、何をしても許されることはないと思っていたりする場合に。
そして裁けなくなった。たぶん、もし命の恩人などではなくても、断罪などできなかっただろう。命の恩人だったから、その理由付けが簡単だっただけで。
もしも兄があのひとと出会わなければ、と思わない時はないが、憎むことも非難することもできない。ただ、望む望まざるによらず互いに関わってしまったそれぞれの想いを抱えて、ほんの一時寄り添い、またそれぞれの道に戻るだけだ。
「わたくしだって特殊よ!」
高く透き通った少女の声がティルスを現実に引き戻す。はっとして慌てて主の方を見れば、皇女殿下は日の光そのもののような表情で、ティルスに手を差し出している。
「だってあなたがいるもの」
繰り出される信頼感あふれる言葉が、全て真実だとは思わない。偉い人というのは、意外とそういう台詞を言うのに慣れているものなのだ、とは既に学習済みである。
それでも、信じてみたくなるほどに、愛されて育った者特有の傲慢なまでに無邪気な笑顔は眩しい。その笑顔が翳ることのないように、とつい願ってしまう。
差し出された皇女殿下の手をそっと取ると、淑女にはあるまじき強い力で握り返され、そのままぐいっと引っ張られた。
「いこう!あなたが育った家を見たいわ」
そのまま駆け出す少女に「くさいし汚いですよ!」と忠告しつつ、ティルスもまた、スピードを上げたのだった。
貧民街の中ほどにある、レンガを積み重ねただけの小屋。広大な宮殿や離宮に慣れた目には「住めるの?」と思うほど小さいだろう、と思いつつ鍵のついていない扉を開けると、湿ったにおいが鼻を襲った。
しかし後ろからひょい、と覗き込んだアナスタシアは気軽に言ってのける。
「そんなにくさくも汚くもないわ?」
確かに覚悟していたよりは、ひどくない。
ここで死にかけていた時には色々と垂れ流しのままだったからもっと汚くてもおかしくないところだが、実際に見てみるとそれほどでもなかった。部屋はきちんと掃除されて住んでいた頃より清潔な程だ。
おそらくはマフィアのお兄さんたちの仕事だろう、とティルスは内心で川縁に立つアパートの端に頭を下げる。貧民街の空き家の管理はマフィアがしているのだ。長年空き家だと持ち主の確認をとらず転売されたりもするが、それでも周辺の住民たちにとっては助かることである。
特に1人暮らしの者は「死んでも見つけてもらえる」と有り難がっていた。その冗談半分の会話を耳にした時には自分には遠いことのような気がしていたが、現実に死にかけてみるとそれがいかに安心することであるかがよく分かる。それはさておき。
いくらある程度掃除がされていようが、元が元である。皇女殿下の住まいと比べれば、豚小屋、いや広さからいえば鶏小屋以下だろう。
「いえやはり上がっていただくわけには」
そこで待っていて下さいね、と言おうと思った時には、少女はするりとティルスの横を抜けて中に入り、ゴザの上に腰を下ろす。
「虫がいるかもしれませんよ」
注意すれば慌てて立ち上がり、ゴザをパサパサと払って「大丈夫!」ともう1度足を投げ出して座る。
住んでいなかった間にノミやダニは絶滅したと信じたい、というティルスの心配を他所に、アナスタシアは珍しそうにキョロキョロと部屋の中を見回した。
窓はなく、剥き出しの煉瓦の壁に木炭らしい落書き。同じく剥き出しの床に、何かの染み。部屋の隅に黒ずんだ皿が重ねてある。着替えの放り込まれた麦わらのカゴ。そして数冊の表紙がぼろぼろの本。
「ティルスはここで生まれたの?」
「いえ違います。ここには父が亡くなってから移ったので」
遠い記憶の中では、街中の小さな庭にあるアパートに住んでいた。裕福ではないが、そこそこの暮らし。父が亡くなっても同じ場所に住み続けることも、親戚を頼ることもできたが、それでは子供たちを学校にやれないと、母は敢えて居を貧民街に移すことを選んだのだった。
無理な生活は母の顔を険しいものにし、寿命を削ったがそれでもその信念は変わらなかった。学校がそれほど好きでなかったティルスは何度も「学校なんか要らないから、母さんがもっと幸せそうにしていてほしい」と思ったものだ。
しかし、今になって思えばそれは紛れもなく、母が愛をもって彼に与えたものであった。1人になっても、生きていけるように。
皇女殿下に住んでいた場所を見たいとねだられ、迷ったものの結局来てしまったのは、そんな母の形見を思い出したからでもある。
洗濯カゴの底を探って小さな木箱を取り出す。アナスタシアが興味深そうにそれを見る。
「それはなに?」
「腕輪です……ガラスの」
蓋を開けると、色とりどりのビーズのツヤが目に飛び込む。
宝石や貴金属をふんだんに使った装飾品に慣れている貴族には子供のオモチャ以下であろうが、庶民にとってガラス玉を連ねたそれはちょっとした贅沢品なのだ。ほかのものは全て手放してしまった母が、それだけは大切にしていた父からの贈り物。
「きれいね!」
無邪気な賞賛に思わず口許が緩む。
「欲しいですか?」
「え?いいの?大切なものなんでしょう?」
「いいですよ。だって今日はアナスタシア様のお誕生日でしょう?」
13歳の誕生日を迎えた皇女殿下だが、皇帝や皇太后の関心は高いとは言い難く、形ばかりの贈り物が届いただけだった。
南の離宮では産みの母や侍女たちから愛されのびのびと育ったと聞いている。その言動を見ても、いかにもそれらしい。それだけに、こちらに移ってからの、周囲の無関心さスレスレの丁寧さはお辛いことだろう。
あまりにお気の毒だと、何かお祝いをと思っても、自分が皇女殿下に上げられるものなど何も無いから。
もしこれが、大切なものだとお分かりになるなら、贈っても良いだろうか。
「お祝いにはもっと立派なものが相応しいとは思いますが、僕には1番大切だったものなので」
「え?それは悪いわ!」
慌てて断ろうとするアナスタシアの手を無理やり捕まえて、腕輪をつける。滑らかな肌にはやはり、もっと輝く宝石の方が似合うと思いながら。
「1番大切なものだから、受け取っていただきたいんです」
ティルスの誕生日には、毎年兄がどこからか『ちょっと美味いもの』を調達してきてくれた。それだけでも、嬉しくて胸の奥が温かくなった。少しでもその温もりをこの寂しい皇女様に分けて差し上げたい。
ガラス玉に彩られた手をとって、心を込めて「お誕生日おめでとうございます」と言ってみる。
「ありがとう!じゃあわたくしも、これを1番大切にするね」
アナスタシアは少し上気した顔で笑い、腕輪をそっと撫でたのだった。




