12.お嬢様は観光を楽しむ(3)
ゆっくり廻ると2~3時間はかかろうかというほどの広さの庭園には、そこかしこに夏の花が芳醇な香を漂わせていた。白い花が多いのでところどころに雪が積もったようであり、アクセントに植えられた紫の花々と共に涼やかな印象をもたらしている。
百合の1群から少し離れて、アガパンサスの宝石のごとき薄紫色が目に優しい。
時々思い出したように植わっている、腰ほどの高さの樹には、白く儚げな花が妖精が集うように咲いている。
「これはレージア・ニヴェウス。『雪のように白い小さな王女』の意味です」
レグルスが熱心に説明する。
「儚げな花ですが存外に強い」
「まぁ」
姉を思い出してクスッと笑うエイレン。そんな彼女の横顔からルーカスは目を逸らし、青紫色をしたデュランタの花房に白斑のある黒い蝶が止まるのを眺めた。
彼が普段にも増して無口になっているのは、兄から受けた二重のダメージのためだ。すなわち、ベタ惚れのくせに、などという言葉の攻撃と、隙を突かれて1発くらったことである。
じゃれ合いのような冗談半分のケンカにもプライドは存在する。兄から口はともかく、実戦の方でも敗北感を味わうのはいただけないのだ。勝者の論理であっさり忘れ、草木の説明などに興じ、彼女から笑顔を引き出している兄が恨めしい。
「あら珍しい。『イーリスの侍女』ね」
エイレンが蝶に気付き、その優雅な名を呼びつつそっと近付いた。蝶が人に慣れているのか、彼女が気配を消すのがうまいのか、蝶は落ち着いて花の蜜を吸い続けている。その横にすっと指を伸ばし、蝶が移るのを待つ仕草が純粋な少女のようだ、とルーカスは思わず目を奪われ、それからそっと溜め息を吐いた。
これだからベタ惚れのくせに、などと言われてしまうのだ。
ルーカスの溜め息に驚いたかのように蝶は飛び立ち、ひらひらと舞う。しばらく所在なげに舞っていたが、やがて何を思ったのかルーカスの頭に止まった。
「あら可愛い。髪飾りみたいになったわ」
蝶を驚かさないよう囁く声が明らかに面白がっている。エイレンはもう一度、今度はルーカスの茶色の髪にそっと指を添えて蝶を誘う。
庭園の花々によく似ているが、少し違う甘い香に惹かれるように蝶が指に止まると、彼女は満足そうにそろそろと手を動かした。「ほら、光が当たると羽がイーリスの色になるでしょう?」
西日に照らされ、黒い蝶の羽に虹色の艶が生まれる。
「久々に見ました。子どもの時以来だ」
ルーカスは懐かしさと若干の悔恨の念に、僅かに目を細めた。
庭園の虫たちは幼い兄弟の良いオモチャだった。夢中になって集め、1つ1つの名を覚えて自慢しあったものだ。気に入りの虫をその頃は元気だった母に捧げたりもしたのだが、母の笑顔は今思うと若干引き攣っていた気もする。ともかくも、虫たちはその頃、ルーカスの良き仲間だったのだ。成長し学ぶことが増え、いつしか彼らのことを忘れるまでは。
しかし蝶に触れなくなったのはもっと早かった。その原因は、たった1度の出来事。この夢幻の中からやって来たような生き物を手に入れようと、羽をつまんで籠に入れたことがあったのだ。
大切にしようと思っていた。蝶が好んで止まる花を、水に挿してたくさん籠の中に入れた。
しかし蝶は花には止まらず、暴れて籠にぶつかった。それでも幼さゆえに逃がしてやることができず、翌朝、蝶は籠の底に落ちて死んでいた。美しい羽をボロボロにして。
それ以来、蝶には触れていなかったのだ。
ほろ苦い思い出を打ち破るようにレグルスの声が響いた。
「少し休憩しましょう。四阿も今、花ざかりですから」
蝶が指から飛び立つのを名残惜しそうにエイレンが見送る。
「センニンソウがもう咲いたのか」
ルーカスが確認するとレグルスは、ああ、と頷いた。
「四阿の床にまで蔓が這ってうるさいほどだ。あれはお前が持ち帰ったものだったな」
東方の国に自生するこの植物の、木に絡み付く蔓に無数の白い花が咲く様子が気に入って、一株だけとって四阿のそばに植えさせた。これまた見た目に反してなかなか丈夫で、気候的には合わない地であるにも関わらず、なかなかよく殖えたのである。
夏になると庭園の隅のこの小さな建物は、まるで花でできているかのような佇まいを見せるようになった。
うるさいほどだ、と言いながらレグルスは気に入っているらしく、真っ先に花のカーテンをかき分けて中に入り、エイレンを招き入れる。
目の前で薄情にも閉まるカーテンを押してルーカスが後に続くと、兄から「少しは遠慮しろよ」という眼差しと、チッ、という舌打ちが投げかけられた。このク○兄貴、という念を込めて舌打ちを返すが、それを涼やかに無視してレグルスはエイレンにベンチを勧めた。
優しい花の香の中に腰を下ろし、機嫌よく解説を続ける。
「我が家の庭園は南方や東方から取り寄せた珍しい植物が多いのですよ。センニンソウもこの辺では珍しいものですが、今の季節ならおすすめしたいのは『夏の月女神』です。夜花開き、そのひと晩しか咲かない儚い女神ですよ」
わざわざ言葉を切ってエイレンの瞳をじっと見つめるのがキザだ、と思うルーカス。
「ぜひ、あなたと2人で見たい。いかがですか」
エイレンが艶やかに微笑む。その唇から舞い散る花弁のように言葉が零れる。
「喜んで」
「嬉しいな」レグルスの顔がぱっと輝いた。
「ちょうど今夜開花予定なんですよ。日が暮れたら軽食を持ってお待ちしますよ。きちんとしたディナーよりそちらの方がお好きでしょう?」
いつの間にリサーチしたのだろうか。エイレンはにこやかに頷き、それから小首を傾げてみせる。
「どこで?」
「ゲストハウスの前です。すぐに分かる。部屋の中にいても、心が浮き立つほどに香りますから」
「楽しみね」
どうやら心底から楽しみであるらしいその微笑みを、ルーカスは複雑な気持ちで眺めたのだった。
日暮れ後、月が昇る前にレグルスはゲストハウスの前に着いた。柔らかで甘い芳香はセレナ・アエスタス特有のもので、その香が遠くまで漂うようになればその夜には花開く。
その香を身に纏うように、彼女は花垣の前にいた。独特の光沢が美しい、ゆったりと柔らかな風合いの裾の長いワンピースが夜目にも白く浮き上がる。月の女神そのもの、という賛辞を胸に呑みこみ、レグルスは静かに彼女の隣に並んだ。
目の前ではセレナ・アエスタスの大きな蕾がゆっくりとほころび、徐々にその花弁を伸ばす。花の香りが次第にますます濃くなっていく。
香りが最も濃密になり、透けるように白い花が開ききるまで、2人は無言でそれを見つめていた。
「ルーカスは?」
温めたワインを入れた銀器を1つエイレンに渡し、レグルスが尋ねる。彼女はワインを1口含んでゆっくりと味わい、尋ね返した。
「あらフラーミニウス宰相より夕食を共にするよう仰せつかったのは、あなたの差し金でしょう?」
「僕は父に、ルーカスが帰ってきていますよ、と教えただけです」
「歯ぎしりしていたわよ弟さん」
クスクスと忍び笑いを漏らし、またワインを1口含む女をレグルスはじっと見詰めた。
「こうでもしないとなかなか、あなたと2人きりになれませんからね」
「そうまでして伝えたいご用件とは何かしらね?」
自分と一緒でもいつも冷静で変わらない彼女と居るのは、最初は戸惑ったが次第にそれが落ち着くようになったのだった、と思い出し、レグルスは静かに微笑んだ。1つ深呼吸して、告げる。
「もうすぐ婚約するんです」
「あら随分急ですこと」
エイレンが軽く瞠目する。
「あなたに真っ先に伝えようと思って。でもルーカスのヤツが気が利かないものだから、なかなか教えられなかった」
「そうなの」
「あなたのお陰なんだ」
尋ねられてもいないのにレグルスが言い、エイレンは黙って首を傾げた。
「あなたのお陰で、愛する人と暮らすのも楽しいだろうと思えたんです」
これまでは正直なところ、結婚など適当な時期に適当に便利な女とし、適当に甘い言葉をかけ贅沢させてやればそれで良い、と考えていたレグルスである。
「共に暮らすなら愛する人でなければ、と分かったのもあなたのお陰だ」
エイレンは感情の見えない瞳の上に微笑みを刷き、レグルスに向ける。言いたいことは分かる気もするが、それを「あなたのお陰」などとされても。
しかし、そちらが勝手に盛り上がり勝手に悟っただけではないの、などとはこのお兄さんには言いにくい。
「それはおめでとう」
「有難う」
照れくさそうな返事。きっと良いお嬢さんなんだろう、とは思うがどのような人かは敢えて尋ねない。
レグルスは真剣な目をしてエイレンの手を取った。
「だから婚約前に、最後にあなたと街を歩きたいんです。明日も1人で来てくれる?」
「それは人としてどうなのかしら」
こちらは別に構わないといえば構わない。だが、そのお相手とやらの立場はどうなるのだ。もしこれがアリーファなら絶対泣いて怒っている。
しかしレグルスは爽やかに言い切ったのだった。
「大丈夫です。彼女には、恩人を南都に案内するだけだから誤解無いように、とちゃんと言ってあるし」
思わずコメカミを押さえるエイレン。人としてどうなの、とつっこみつつも、泣いて怒る方よりはレグルスの方の発想が理解できてしまうのである。
「後がどうなろうと知らないわよ?」
確認すればレグルスは満足げに頷いて、大丈夫です、と爽やかな笑顔を見せたのだった。
読んでいただきありがとうございます(^^)
フラーミニウス家のお庭のそれぞれのお花はこちらの世界にあるものを元に、若干品種改良(?)をほどこしております。センニンソウが四阿覆うほど殖えるとか、そのあたり……
そしてこのGW中、更新遅れ気味にも関わらず新たなブクマや高評価いただき誠に感謝です!
これもこれまでずっとお付き合い下さった皆様のおかげですm(_ _)m




