10.お嬢様は少々オカシイ(1)
ずいぶんと長くとりとめのない夢を見た後でぼんやりと目を開けると、まず映ったのは剥き出しの石の壁だった。すぐに神殿の自室だと分かったものの、大した感慨はない。
それより気になるのはどの程度の時間が経過しているかということである。ここ王都神殿にいるということは、ミスリル鉱床のある高原で倒れてから5日以上が経過していることを示していた。ちっ、と小さく舌打ちをする。その舌打ちに反応するように、澄んだやや高めの女の子らしい声が聞こえた。
「あっエイレン起きた?私のこと分かる?」
「……どなただったかしら」
「ウソ忘れちゃったの?やっぱりまだ元に戻ってないんだ!師匠ぉ!」
はいはいどうしました、と相変わらずののんびりした口調でリクウが顔を出した。
「師匠っ、エイレンが私のこと分からないんだって!どうしよう」
どれ、と額に手をかざして瞑目した師匠は、しばらくして目を開けると「心配いりませんよ」と宣言した。
「仮病です」
あっさりとした診断にアリーファは一瞬固まり、それから掴みかからんばかりの勢いでエイレンに詰め寄る。
「あなたって女は!人が心配してるのに!」
返事は、ふん、と鼻で笑う音だった。
「このわたくしに間抜けな質問をするからでないの。忘れるワケないでしょう?そんなことも分からなくなるほど恋愛ボケかしらアリーファさん」
「そ、そんなことないもんっ」
「わかったわ。順調にコナかけられてもうじきフリッターにされるところなのね」
「フリッターってなに」
「肉や野菜を粉塗れににした後、大量の油を熱した中に落として火を通し、アツアツのところを美味しくいただく帝国料理でしてよ」
「……!エイレンのばかぁっ!」
ワタワタするアリーファを、白い顔に性格の悪い笑みを浮かべて見つめるエイレンであったが、師匠の何とも言えない目線に気付き、コホン、と小さく咳払いをする。一瞬後にはその顔面に、誰しもがひと目で信じてしまいそうになる聖女スマイルが刷かれていた。
「良かったわね」
しみじみとした穏やかな口調もまさに聖女様そのものだが、アリーファは必死に抵抗する。
「騙されないもんね!」
「あら。あなたごとき何の利用価値もない人間をわざわざ騙すワケがないでしょう?」
聖女スマイル続行中だが、言うことは性格が悪かった。そして『騙すワケがない』なんてウソだ絶対にウソだ180%ウソだ。
「人を騙すのも趣味のウチのくせにっ」
アリーファの攻撃に、蜜色の瞳が驚いたように開かれる。
「あなた何気にすごいわよね。短い付き合いでよくそこまで見抜いたこと。さすがハンスさんから美味しくいただかれる寸前だけあるわね」
「……まさかと思うけどもしかしてヤキモチ?」
これまでデレデレに可愛がられていた妹分としては兄キの恋が面白くない、とか?これから真の悪役になって兄キの恋人をいじめ抜く予定だ、とか?
おそるおそるなされたアリーファの確認に、鈴を振るような笑い声が返された。
「そのようなワケないでしょう?」
そしてエイレンは再び、にっこりと聖女スマイル大安売りをする。
「面白いからつつき回しているだけー」
あまりの言い様にアリーファは絶句し、リクウは「あれまだ一部元に戻し損ねているのかな」と心密かに考えたのだった。
かくして目が覚めた時からいきなり「信じられない」と思う発言を飛ばしまくったエイレンだったが、その身体がまだ本調子でないことは普通に考えれば明らかである。が、そんなことは全く気にせず、いきなり着替えようとするエイレンをアリーファは心配と呆れ5分ずつ程度の割合で眺めていた。
分かっていることは、阻止しようがどのみち聞く耳は絶対に持たれない、ということだけだ。
着せられていた簡素な麻のワンピースを予告なくエイレンが脱ぎ出すと、リクウは黙ってさっさと姿を消し折悪く「失礼します」と入ってきたルーカスは一瞬固まった後「失礼しました」とそのまま回れ右して出て行った。
そうした反応をエイレンは平然と無視して、帝国風の軍服を手早く身に着けていく。ピッタリとした細身のズボンと、襟元が広く開き袖部分がややゆったりと風通しの良い夏用の絹のシャツ。暑さを感じさせるスタイルではなかったが、不満げにやや眉をひそめると「麻の方が涼しいわよね?」と珍しくアリーファに同意を求めた。
「そうなの?」
「ああ、あなたも基本絹しか着ないから分からないのね」
聖王国でも帝国と同じく、裕福な者は大体、絹の服を着ているのだ。そこそこ金持ちの部類に入る大店の娘もまた然り、である。彼らにとって麻はシーツや紐の素材であり、身に着けるものではない。
「でも麻の方が断然、涼感があってくたびれにくいのよ」
言われてエイレンが脱いだワンピースを手に取ってみれば、そのような気もする。最初はひんやりとしてもいつの間にか肌に馴染む絹とは違い、麻の方はぱりっと冷たい手触りが続くのだ。
確かに、と頷くアリーファを見て、エイレンは満足げに「これは帝国に確実に売り込めるわね」と嘯いた。どうやら起き抜けと同時に何か国家規模のことを考え始めたようだ。
「少しは身体のことも考えなさいよこのワーカホリック女」
いかにもエイレンらしい、と思いつつも文句をつけると、心底楽しそうな声を伴いつつさらに進化したこたえが返ってきた。
「あら、倒れたらどうするかなんて倒れてから考えれば良いことよ」
部屋の外からボソボソとルーカスが問う。
「失礼。もう入っても?」
「あら別にいつ入っていただいても構わないのよ?」
それはダメでしょ、とアリーファがつっこみ、ややあって部屋に入ってきた彼の第一声は真情の籠もったものであった。
「その倒れてから云々とのお考えは随分と迷惑ですね」
ああ、多分この度1番迷惑掛けられた人なんだな、と同情の目をアリーファが向ける一方で、エイレンはふわりと自然な笑みを作る。
「でも絶対助けて下さるんでしょう?」
無邪気なまでに信頼しきった眼差しを向けられてルーカスは一瞬固まり、ぶっきらぼうにエイレンから目を逸らした。
「できるだけ、そういったことが無いようにお願いします」
「そうね。でもありがとう。あなたのお陰で助かったわ」
2人のやりとりを目の当たりにして、アリーファが思い出したのは帝国で出会った気の合う侍女、ダナエのことである。彼女がこっそり見せてくれた『姫様ラブダービー』の予想表は今までちょっとしたお遊びだろうと思っていたのだが。
帝国ではこうしてあちこちにコナを振り撒いていたのだろうか……とすると、やっぱり恐いこの女超恐い。
アリーファの戦慄をよそに、2人の会話は続く。
「使者殿が回復次第、協議を始めたいのだそうですがいかがしますか」
「今からすぐでけっこうよ」
「あほかあなたは。今言ったばかりだろうが」
ルーカスが言い終わる前に、エイレンはしっかりした足取りで部屋を出て行きかけ、ふとアリーファを振り返る。
「そういえばあなた、いつゴートに戻るの?」
「何も用がなければ今日中、かな。師匠忙しそうだし」
「ならやはり協議は明日にするわ。アリーファあなたも帰るの明日になさいな」
さっくりとスケジュールを変更し、アリーファの手を取って笑顔を見せるエイレン。
「せっかく会えたんだもの。久々でもないけれどゆっくりお話しましょうよ」
雪が降るかと思うほど珍しい台詞に、純情な少女もまた固まったのであった。
(コナ全方位に振り撒きすぎ!)




