9.お嬢様は治療を受ける(2)
里神と崇められている白狼の出産を見守ってから、もう4ヶ月経とうとしている。当時は師匠が急に手助けをすることになってしまい、いつまでも帰ってこない師匠をエイレンと共に探しにいったのだ。あの時に2人で初めて精霊魔術を使ったのだった、ということをアリーファは懐かしく思い出す。
何度も協力してやっと灯した透輝石の明かりは、今でもアリーファの中で1番美しく輝くものだった。エイレンは当時も今も変わらずキツい性格をしているが、あの時は一切「ダメ」とも「無能」とも言わなかったのだ。
こうと決めたら頑固なまでにそれを通そうとするエイレンは大体の場合において迷惑なことが多いものの、あの出来事を思い出すとつい「まぁいいか」と巻き込まれてしまうアリーファなのである。そして、それが悪いことばかりじゃなかった、とも思うのだ。
さて、当の白狼は居を山上の洞窟から森の奥に造られた石の祠へと移していた。祠といっても小さいのは入口だけで、身を縮めるようにして中に入れば母狼と4匹の仔が暮らすのにじゅうぶんな広さがある。白狼はここで子育てをする傍ら、王都郊外の村を守る役目もこなしているらしい。
アリーファとハンスさんが訪れた時、仔らは森鼠をオモチャに狩りの練習をしているところだったが、2人の客人の姿を見つけるとすぐに獲物を放置し、近寄って代わる代わる湿った鼻面を押し付けてきた。
「遊んで」と言わんばかりに大きく見開かれた8つのアイスブルーの瞳に囲まれて、アリーファはニヘニヘと顔を笑み崩す。
すくすくと成長した仔らは、大きさはまだ母親の半分程度だが、顔付きにもうそれらしい凛々しさが出てきている。グレーの夏毛に覆われた体躯はほっそりとして若々しい。生まれたての頼りない姿も愛らしかったが、立派になった姿もまた嬉しいものだ。
狼の仔らと戯れる少女を微笑ましく眺めつつ、母狼と神様は人の言葉を使わない会話をしていた。
目下のところの問題は邪鬼が増え始めていることである。水辺に潜み人に害をなす水鬼、人に取り憑き気を狂わせる霊鬼、畑を掘り返し作物に被害を与える土鬼……あたりが代表格ではあるが、有象無象がいてその実態を全て把握することは難しい。
もともと彼らが棲む土地に後から来て支配権を奪ったのが聖王国であり、どちらが悪いかという議論になると果てしないが、ともあれ上手に仲良くすることができなかったのが事実なのだ。何らかの原因で国を守る大結界が弱まると邪鬼が跋扈し出し、民への被害が目立つようになる。
今はまだ狩れていますが、と白狼がアイスブルーの目と尻尾の動き、わずかな表情で伝えてくる。ハンスさんはふむ、と考え込んだ。今は結界が綻びた順に修理と補強を繰り返し何とかしているが、抜本的な対策となると難しい。
地方ではすでに被害が出始めているのでは?と問われるのに、白い毛に覆われた背中を撫で、まだ大丈夫、と伝える。結界のメンテは追いついているし、邪鬼どもは見掛ける度に問答無用で狩っている。
それがより彼らの憎しみを増す結果にはなっているのだが、かといって温い対策で悪さをやめることなど決して無いのだ。もし自身がもっと守護に長けた神であったら、と思わずにはいられない。
そんな神様の手に、白いフサフサの尻尾が慰めるようにポンポン当たり、ありがとうな、とまた背中を撫でる。……こういうやりとりだったら「察しろ」と言われるまでもなく分かるんだけどなぁ、とハンスさんはアリーファの方を見て苦笑し、白狼はそんな神様にやや生温い目を向けたのであった。
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「ねぇまだぁもう5時間経ってるよね?」
本日最後の仕事で、船の舵に精霊魔術の文言を刻んでいると宙にプカプカと浮いた神様がさも退屈げに覗き込んでくる。ジャマであったが、リクウは軽く頷き仕事を続ける。まじないは途中で切れるとまた最初からやり直し。必要なのは集中力とどんな横槍にも心乱されない精神力なのだ。
「ねぇまだぁ?」
再び覗き込んでくるハンスさんを、はいはいーあっち行ってましょうね、とアリーファが引き摺って連れ出した。なかなか良い仕事ぶりである。
呪文を唱え終わり、最後の文字を舵に刻むと、リクウはやれやれと溜め息をついた。その溜め息の中には「うるさいわつまり元はといえばオマエのせいなのに大きな顔してんじゃねえこの脳天気マッチョ」という声には出さない暴言も含まれている。
そもそも「オマエに頼むのイヤなんだけどまぁ頼むわ」というノリでやってきたこの神様に多少詳しく聞いてみると、禁術を使われたのが原因でエイレンが眠り続けているらしい。
「魂っていうとそっちが専門だからな!」
まぁヨロシク、と言われて、先に聞くのでは無かった、と思った。神様が困るレベルで魂にトラブルが起こっているとは、どういう状態なのだろうと非常に気になってしまったからだ。
おかげで船をメンテする間も、油断をするとそちらを考えてしまい、作業はスムーズとはいえない結果になったのだ。挙げ句に終盤にはデートから戻ってきた神様から「まだぁ?」とせっつかれ……
ここでキレたらこれまでの作業がムダ、とひたすら心頭滅却できた自分をホメてやりたい。「バカな弟子だった頃と比べると成長したなぁ」とか。
「師匠、ここ何かくっついてます!」
船をチェックしていたアリーファが声を上げた。船縁に、何やら黒い塊がくっついてウゴウゴしている。
「あーちょい待って!触らないでねー?」
慌てて飛んでいったハンスさんが、黒い塊を引っぺがして地面に投げ、ダン、と踏み付けるとそれはシュッと音を立てて消えていき、地面に血のような黒い染みが残った。
「ついにここまで出たかーヤバいなー」
神殿の連中に言っとかなきゃ、とブツブツぼやく神様に「何なんですかコレ」と問えば、昔リクウがその師匠から聞いたことのある言葉が返ってきた。
「水鬼。の幼体」




