3.お嬢様は姉上様のお見舞いをする(2)
姉の寝室は暗く、じっとりとした湿気が感じられた。
「鎧戸は閉めたままにしているの?」
とエイレンが問えば、侍女が困ったように視線を落とす。
「1日に1度は換気するようにしているのですが、すぐに、ニオイが気になる、と仰られて」
「なにか臭うものが近くに?」
「いえ……私共には分かりかねますが」
つわりといえば吐く、というイメージだが、姉はそちらは無いらしい。ただし。
「ニオイが気になる、とほとんどお召し上がりにならず、またいつも眠い、と仰って」
その結果が暗い部屋で日がな一日ウトウトしている、ということになっているようだ。
「分かったわ。ではお大事になさって」
踵を返しかけると、侍女が不思議そうな顔をする。
「お会いにならないのですか?」
「そのような状態なら誰にも会いたくないでしょうよ。また来るわ」
エイレンが実は生きていることは神殿関係者にも王宮の一部にも知れるところとなっているが、建前上は『死者』である。そのため、神官長からせしめた紹介状を門で見せ、侍女に取次を頼んで30分待ち……という面倒な手続きを経て辿り着いた姉の部屋ではあったが、だからといって無理に押し入ることなどできない。
施療院にいた頃にとある妊婦がそうしたことで愚痴っていたのを覚えていれば、尚更だった。
「ずっと眠くてダルいのに、義母ったら『気合が足りないせいだ』とか言うんですよ!」
確か小さな商家の嫁だったが、その義母とて昔はこの嫁のような時があったろうに……、と思うと空恐ろしいものがある。気合は関係ない、と言ってやってもかの義母が考えを改めることはなく、その妊婦は施療院にしばしば昼寝にやってきていた。
閑話休題。長居は無用とばかりにエイレンが部屋を出ようとした時、姉の細い声が聞こえた。
「エイレン?あなた、いるの?」
「姉上。よく気付いたわね」
「あなたの匂いがしたから」
言われてエイレンは己の袖口を鼻に持っていく……が、よく分からない。これでも気を遣い、出掛ける前にいちおう風呂に入ってきたし香水はつけていないのだが。ファーレンは続けた。
「神殿のオリーブ油とローズマリーとミントの石鹸を使ったわね」
驚きの嗅覚の鋭敏さであった。薬草園の調香師顔負けだ、と思いつつエイレンは確認する。
「ご不快かしら?」
「いいえ。この程度なら大丈夫。ローズマリーもミントも良い香りよ」
「もしかしてオリーブ油がクサイとか?」
オリーブ油の石鹸は客用の高級品だが、他のものよりニオイが少ないだろうとわざわざ使ったものだった。
やや間が空いて、獣脂より良いわ、という返答があった。クサいんだな。
「もしかして蝋が燃えるニオイもダメとか」
「よく分かったわね」
だから暗くても蝋燭を灯していないのである。早めに透輝石を調達、と頭の片隅にメモしつつ暇乞いを告げると「え、もう?」とファーレンが残念そうな声を上げた。
「せめて顔を見せてからにしてちょうだい」
「あら姉上、お辛いのに無理する必要はないわよ」
「あなたが黙って精霊魔術師の館から姿を消した時の辛さに比べれば、このようなこと何でもないわよ」
確かに父にも姉にも黙っていたが、そこにチェック入っているとは思っていなかった。さすがは姉。黙り込むエイレンに、ファーレンは重ねて言う。
「あの時は本当に心配したんですからね。顔を見るまで安心できないわ」
ファーレンに指示された侍女が鎧戸を開けると、生温い風と共に夏薔薇の香りが部屋を満たす。甘い匂いが今苦手なのよ、と袖で鼻を覆いつつ身を起こす姉を見て、エイレンは微笑む。
「あらわたくしも安心したわ。思ったよりお元気そう」
ファーレンは少しほっそりとはしたものの、その表情は明るく、夜空のような濃紺の瞳は輝くようでさえある。
「そうよ。幸せだもの。これくらい、何でもないわ」
その手首にミスリルの腕輪があるのを見て、エイレンは目を丸くした。
「姉上それ付けているの」
「もう分かっているから、前みたいに無様なことにはならないわ」
これを付けているとつわりが少しマシなの、と言われてますます驚くエイレン。妙な効果もあったものである。
「で?いなくなっている間どこで何をしていたのかしら」
「帝国に渡ってちょっと色々。もうしばらくしたらまた帝国に行くことになると思うわ」
ごく当たり障りの無いところだけをかいつまんで話すとそうなる。すかさず細められるファーレンの目。
「い・ろ・い・ろ?また行くってどういうこと?」
真面目なところだけは父に似ている姉には言えない。何のしがらみもない帝国ですっかり開放されて好き放題おイタをしてきましたなどとは、とても。後半部分が答えられる質問で良かった、とエイレンは表情を取り繕う。
「今は帝国側の使者として神殿と取引にきているの。工場建築と鉱床開発・運営を支援させる代わりに、ミスリル原石を帝国に安価で譲る」
「何ですって。帝国と神殿が直接?」
「そうよ何かいけない?」
「国王様がご不快に思われるわよ」
「そこは姉上よろしく」
もともと神殿から差し出された側室の役割とは、そういうものである。姉上のことだから「あ、急に気分が」とでも言うかしら、と思ったが、ファーレンはあっさり頷いた。
「分かったわ。国王様には折をみてお話ししておきましょう……帝国からの支援額がかなり大きいのね?」
「金1000枚以上の支援を約束されています」
ファーレンが呻く。
「わたくしが政治系貴族に頼んで回っても、合わせて金300枚いかなかったのに……」
「すごいではないの!政治系貴族どもからそれだけ出させるなんて、頑張られたのね」
そう、やつらの仕事は税金を集めることで出すことではないのだ。ありがとう、と礼を言うと、ファーレンはやっと微笑んだ。
「わたくしはこのような状態で見に行けていないけれど、もうそろそろ建築が始まっているはずよ。資金不足になってきたらまた何らかの理由をつけて絞り取ろうと思っていたの……帝国からの支援は有難いわね」
エイレンはファーレンの言葉に驚く。絞り取る、などとこの姉が言うようになるとは思わなかったのだ。
「姉上、変わったわね」
と感心してみせれば、よく似た笑みが返される。
「あなたこそ」
失礼します、と侍女がやってきて国王の来訪を告げた。




