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3.お嬢様は姉上様のお見舞いをする(1)

掘り込み式の炉の中で赤く熱された石に壺の水を注ぐと、シューッと石壁に反響する音と共にミントの香りの蒸気が吹き上がり、空間を白く満たす。その熱で身体を温めた後に洗い場で水を浴びて清める、という入浴方法を聞いた時には驚いたが、これはこれで気持ちの良いものだった。


タイル貼りのベンチに腰を降ろし静かに身体が温まるのを待っていると、昨日の『馬上レース on ゴート/王都間』で一挙に溜まった疲労が湯気に溶かされるように徐々に消えていく。うるさいまでの蒸気の音が思考を邪魔して半ば眠り心地になり、時間を忘れてしまう。


ウトウトと落ちかけていた頭を目覚めさせたのは、やや離れた所から響く快活な声だった。


「よぉ久しぶり!相変わらずエロくないカラダだな。ちっとは食って鍛錬サボれ」


「あらオウド兄さんは逆ね。ちっとは控えて鍛錬3倍増にでもなさいな。腹の肉がヤバいわよ」


続いて聞こえた女の涼やかな声にルーカスの心臓が縮みあがる。確かにこの浴場が男性専用とは誰からも聞いていない。また、女性専用があるかなど、気にもしていなかった。


(しかし普通はないだろう!せめて時間ずらすとかするだろうが!)


まさかの混浴。しかも男女ともに前を隠そうともせず、かつそれをネタに軽口を叩き合っているのだ……彼女が時折無邪気に繰り出す頭のオカシイ言動のルーツが分かった瞬間だった。それはさておき。


逃げなければ、と立ち上がり炉の外側に回った所で、鉢合わせてしまった。とっさに目を逸らすルーカスをエイレンは不思議そうに見る。


「あらおはよう。昨日はよく眠れたかしら?」


「はい決死の気狂いレースのおかげでグッスリでした」


「それは良かったわ。もう出るの?」


「はい是非ともそうさせていただきます」


そう、とエイレンは微笑み、では後でね、と手を振る。筋肉以外のものは一切付いていない固そうな二の腕がルーカスの視界の端に入ってきた。


……確かに、ちっともエロくない。


なのにそれで心臓が飛び出しそうになる自分が、どうかしているのだ―――



壺に入った水を炉の焼けた石ににざーっと回し掛け、蒸気で浴場を満たすとエイレンはベンチに腰掛けた。隣には幼い頃から馴染みのある神官が座る。本当の兄ではなく、神殿には親しい年長者を兄さん姉さんと呼ぶ風習があるのだ。


「本当にゴートから半日で駆けたんだなぁ……まさかと思ったが」


オウドの半ば呆れたようなしみじみとした口調に、前日の『気狂いレース(命名ルーカス)』が一晩で神殿の噂になっているらしいことを悟る。誰が言い出すのか、相変わらず素早いことだ、とエイレンは小さく鼻で笑った。


「なんでまたそんなことを」


「やってみたかったからよ」


「おまえ……バカになったなぁ」


オウドが一瞬目を見張り、それからしみじみと述べた感想に、エイレンはくすくすと笑う。


「それ最近よく言われるわ」


「だろうな。昔よりよほど楽しそうだ」


「そう?」


「ああ。首から下は相変わらずだが、上が多少エロくなった」


脱いだらソレだと知らなければ俺も引っ掛かってるかも、とまたしても軽口を叩かれる。ちなみに『エロくなった』はオウド的には褒め言葉なのだ。ほかの者なら『表情豊かになった』とでも言うところだろうか。


ああだから帝国(むこう)で変にモテたのね、とエイレンは頷き、オウドはまじか、と目をぱちくりさせた。


「気の毒になぁ、そいつら。さっさと脱いで見せてやれば、一瞬で夢醒めたろうに」


「なぜわたくしがそこまでして差し上げねばならないの。せいぜい利用させていただいたわ」


やはりしみじみと感想を述べるオウドにブリザードをちらつかせつつ言えば、やり過ぎるなよ、と困ったような忠告が返される。


「おまえ意外と手段にハマって目的を見失うタイプだから」


暗に半年近く前の家出を示唆されているのだ。あの頃のエイレンは己こそが禍神(まがつかみ)であると思うほどに怒りに満ち、そして空虚であった。己を当然のように利用しようとする者たち全て、ひいてはこの国を滅ぼす以外、何も考えられなかった。


それがいつの間にか、利用されていただけではなかったことを知り、そして「もし護れる者が己しかいないなら、受けるもまた致し方なし」とまで思うようになった―――変わった、と言われるはずである。


だが。オウドの言は少々不本意だ。


「このわたくしがなんですって?確かに目的はうっちゃったけど、手段にハマったわけではないわよ」


「ウソつけ。ハマってなくてそこまでするか」


その日はスパイを始末したことで神殿関係者にとっては全ての杞憂が晴れた晩であった。国を維持するために必要な婚姻であれば反対する者などいるはずもなく、祝賀ムードの中警備は手薄で『一の巫女』に直接つけられた護衛は彼1人だった。


誰も考えていなかったのだ。常に責務を最優先する彼女が、側室になる直前に逃げ出そうとするなど。しかし実際にオウドに剣を突きつけたのは、彼が護るはずの女だった。


「あの時おまえが泣いていなかったら、俺は負けなかったんだ」


「泣いていた?わたくしが?」


エイレンは眉間を少し狭めて尋ねるが、オウドははっきりと覚えている。その時、彼女の蜜色の双眸は片方は冷たく凍り付いていたのに、片方からは一滴また一滴と透明なしずくがこぼれ落ち頬を伝っていたのだ。


それに気付いたオウドは攻撃の手を思わず緩めた。


相手を傷付けることを厭わない彼女に対し、もともとその剣を狙っていただけの彼が油断すべきではなかったというのに。


一瞬の隙をつき、彼女のレイピアは彼の肩を貫き、続いて足の甲をわざと浅めに突き刺した。痛みが自覚できるようにだ。うずくまる彼を振り返りもせず、彼女は去って行った―――


「ああこれがその時の傷ね」


エイレンの手がオウドの肩をそっと撫でた。そして、細く固い両腕が彼の肩を包む。


「あの時はごめんなさい。それから見逃してくれてありがとう」


柔らかいものが背に触れ、オウドは渋面を作った。


「やめんか。胸あたってるぞ」


「え?大したことではないわよね?」


「いや割かし破壊力バツグンかも」


「ウソおっしゃい」


クスクスと笑いながらエイレンは立ちあがり、少し急いでいるから兄さんはごゆっくり、と洗い場に向かう。


「おう、またな。次はもうちょいエロくなっとけよ」


湯気で覆われて見えないその背中から「バカね」という返事が放たれ、オウドは朗らかな笑い声をあげてそっと肩の傷に手を当てた。


彼女の刃に刺し貫かれた時、これで良かった、と思ったのは、彼の一生の秘密なのだ。

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