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1.お嬢様は海を渡る(2)

これまで運河ならば何度か船で旅をしたことがあるが、海は初めてだった。昼は昼で解放的な美しさがあったが、夜はどうだろう……と考えると彼にしては珍しく沸き立つ心を抑えきれず、ルーカスは甲板に寝転んでいた。


聖王国の商人と精霊魔術師(まじないし)と同じ船室に押し込まれるよりはこちらの方が気楽でもある。


夜の船は漕ぎ手も寝静まり、ただ潮と風に任せて進むだけである。甲板は昼間の喧噪とは打って変わって静かで、ただ時折、船が揺れた拍子に櫂が船縁をこする音が聞こえてくる。


灼熱の太陽が落ちた後は、同じ季節とは思えぬほどに海風が冷たく感じられる。右手に見える陸地にポツポツと灯る明かりや夜釣りの灯が落ちていく。黒々とその身を横たえた陸は、これこそが真の姿だといわんばかりだ。


やがて月が沈むと、天上一面に星の輝きが満ちた。


海兵たちはこれらの星の大方を把握しているというが、ルーカスにはさっぱりである。()っているのは折しも中天にある兄と同名の星(レグルス)、それにこの船が向かう方向にある座して動かぬ(しるべ)の星天極星(ポールス)、それを見つけるための聖なる七つ星(セプト・サンクトゥス)……程度のものだ。


目を凝らしてそれらの星を眺めていると、ふと人の気配を感じた。反射的にサーベルを掴み身を起こすと、同じくレイピアに手を掛けた細身の影がゆるゆると警戒を解く。


「なんだあなたなの」


「それはこっちの台詞だ。夜中までウロチョロと何の悪企みですか」


「別に。少し夜の海が気になっただけ」


エイレンはルーカスの隣に腰を下ろし、そのまま伸び伸びと仰向けに寝転ぶ。


「あら、こうするとよく見えるのね」


「星に興味が?」


「姉がね。わたくしはさっぱりだわ……あなたはご存知?」


「ほんの少しです」


先程目で追っていた星を1つ1つ指しながらルーカスが教えるのを、エイレンは黙って聞いていた。


「知っているのは、これだけですよ」


「ありがとう……名を知ると少し違って見えるわ。それこそ船乗りでもないのに星などバカバカしいと思ってきたけれど、眺めていると知りたくなるものね」


「名を知らなくても、簡単な方法がありますよ」


「どのような?」


「名を付けるんです。子供の頃によくした遊びで」


子供の頃のことなど、すっかり忘れていたのになぜ今更。自分の声をやたらと遠くに聞きながらルーカスは続けた。


「兄の名の星があるのが悔しくて、ならばこれが自分のだ、と」


「どれ?」


「忘れました」


ならわたくしが付けて差し上げるわ、と面白がっているような声とともに、女の細い指がすっと空を示す。


「あのレグルスの近くにある、暗く赤い星がルーカスさん」


「なんでまたそんな」


「地味だけど胸の奥底の方にね、赤い火の塊があるのよ」


くすくすと笑って女はまた空を示し、星々に名を付けていく。


「あの真珠色が姉上(ファーレン)、オレンジ色がアリーファ、黄色い小さい星がキルケ。それからあの1番明るい白いのはきっと皇帝陛下ね。それから、あの青いのが……」


呟かれた声は小さすぎて、誰の名か聞き取れなかった。


「これ面白いわね。さっきまでどれも同じだった星が、名を付けると1つ1つ特別に思えるわ」


「良かったですね」


黙ってしばらく星を眺めていると、女がぽつりと言った。


「少し前に名を付けてもらったことがあったのだけれど……あの人も少しは、わたくしのこと特別と思ったのかしら?」


なんなんだそれは。イラッとする自分に、ルーカスは驚くがそれでも簡単には苛立ちは静まらなかった。


ならば自分も彼女に名付けて良いだろうか。アミカ・ファトゥース・サエクリウス(世界一のバカ女)とか。もしそう言ったら、おそらく彼女は面白そうに笑って、別に構わないとでも言いつつ無かったことにしてしまうのだろうが。


彼女に名付ける代わりに、彼もまた星を示した。天極星(ポールス)だ。


「ではあれがあなたの星だ」


「あらわたくしそんな立派ではないわ」


不本意そうな声が響いたが、彼は構わず続ける。


「頑固でバカで誰にも動かせないところがそっくりです……でも少しだけ」


振り返って身をかがめ、両手で彼女の白い顔をはさむと、星明かりをわずかに映した金色の瞳が大きく見開かれた。


「少しだけ、こっちを見て下さい」


自分は一体、何を言い、何をしようとしているんだろう……ルーカスは混乱しつつ、その夜風で冷えた唇を、彼女の柔らかく温かな唇にそっと押し当てたのだった。



※※※※※



「少し前に名を付けてもらったのだけれど、あの人も少しは、わたくしのこと特別と思ったのかしら……」


エイレンの静かなのにやけに響いて聞こえる声に、リクウは思わず、マストの上から甲板を見下ろした。夏の始めに散々船を修理してきたが、乗るのはかなり久しぶりで、年甲斐もなくワクワクした挙げ句につい「誰も見ていないからいーや」とばかりに夜闇に乗じてマストに登っていたのである。


こんな夜中に甲板に出る人間などいないだろう、とタカを括っていたのだが……エイレンならば出ていてもおかしくない。もう1人は誰だろうと見てみれば、彼女の護衛に付けられていたフラーミニウスとかいう男である。


そうだった、とリクウは思った。特別だから、彼女に偽名が必要だった時に『愛されし者』の意味を持つ名を贈ったのだ……ただ、どう特別かは考えたことも無かったし考えるつもりも無いのだが。


ザナ、と彼はかつて亡くした恋人の名を小さく呼んで空を見上げた。かつて定めた彼女の星は、明け方空の低くに姿を現す薄紫のものだった。ただそれは、いくら目を凝らしてもこの海からは見えないのだ。

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