1.お嬢様は海を渡る(1)
紺碧の海を、一艘の軍船がゆるやかに進んでいく。黒塗りの船体に、赤地に金糸で双頭の鷲が縫い取られた旗は、それが帝国のものであることを示していた。
「海って……予想以上に退屈ぅ……」
船室でベッドにつっぷし、げんなりと呟くのはアリーファである。運河を下っていた時は周囲の景色が変わっていくのが面白かったが、ゼフィリュス港から聖王国へと発つと、様子は一変した。
河とはまた違う横揺れに酔いつつも、どこまでも広がる海原に目を見張り、遠くの水平線に想いを馳せ、沈む夕日に心満たされた……のは1日目までだ。2日目は海の揺れにも慣れ、どこまで行っても平行な陸地と空にも既になんとなく飽きがきている。
「退屈なのは航海が順調な証拠よ。時化にでも遭ってごらんなさいな」
なにやらゴソゴソと身支度をしつつエイレンが言う。船室はアリーファと共同だが、こちらは協調性など全く無く楽しそうですらあった。
「そのかっこうなに?」
「これ?」
わざとボヤかして全体的な話として聞いたのに、嬉しそうに局所を指す軍服姿のエイレン。
「ワタを詰めたのよ。確かに手巾より加工しやすいわね」
形といい大きさといい、バッチリでしょう?と尋ねられて、アリーファは真っ赤になった。
「そんなの知らないっ!」
「そう。では今度ハンスさんので確認してご覧なさいな。バッチリなはずだから」
「エイレンの……エイレンの、バカぁっ!」
絶叫して枕をポカポカと殴る妹弟子にひとしきり慈愛の眼差しを送り、エイレンは満足そうに扉に向かう。胸にはきっちりさらしを巻き、髪は革紐で無造作に纏めているので、やや大股で歩けば確かに少年のように見えるのだが。
「で、そんなかっこうで一体なにをするつもり?」
アリーファの問いに、にんまりとするエイレン。
「漕ぎ手」
「はいぃ?!」
「この暑さだから、交代を待たずにダウンする人がきっといるでしょうね」
甲板に出るとギラギラとした太陽が肌を焼くこの季節、日陰だからといって殊更に過ごしやすいワケではない。この船は軍船といっても戦闘用ではなく貴人輸送用であるため漕ぎ手の人数は限られており、確かに交代までもたない者も出るかも……だがしかし、これだけ彼女が嬉しそうにしているということは。
「人助けのフリをして単に漕いでみたいだけ」
「え?あなただってしてみたいでしょう?」
アリーファの指摘にエイレンが不思議そうな顔をする。
「ワタもわたくしの軍服もあるから、あなた用もすぐに作れてよ」
「いらないっ」
旅の途中に何が悲しくて、わざわざ一部もっこりさせヤロー共に混じって汗を流さねばならないのか。
「そう?してみたくなったらいつでも用意して差し上げるわよ」
彼女にしては珍しく親切な言葉を残し、エイレンは足取りも軽く船室を出て行った。
「漕ぐの……そんなに楽しい、かなぁ?」
後に残されたのは、確かに何もしないのも退屈だと1人悩むアリーファであった。
―――でもやっぱり、もっこりはイヤだ。
※※※※※
櫂が起こす波が白い泡を海面に残して、船を前に進める様子をルーカスは甲板から興味深く眺めていた。
「見知った仲の方が良いだろう」という皇帝陛下のひと言で引き続きエイレンの護衛をするハメになってしまった時には「勘弁してほしい」と思ったものだが、船の旅自体は性に合っていた。
ジリジリと熱い陽差しを風が半ば吹き飛ばしていくのが爽快だ。今日は波が少しだけ荒く、遠くではウサギが跳ねるように白いラインが動く。どこまでも広がる空の、白く光った端から見上げるほどに濃く青くなるグラデーションが美しい。
単純といえば単純だが、船を包み込んで広がる空と海に、人が見飽きることなど決してないように思える……そんな風景をバックにスタスタと歩いてくる彼女の姿に気付き、ルーカスは吹き出しそうになるのを慌てて抑えて固い表情を取り繕った。
「あほかあなたは。またそんなかっこうで」
「あらでも今度こそ、少年に見えるでしょう。あなたの発案なかなか良いわよ」
手巾で1度失敗しているのに、その時にルーカスがつい言ってしまった『ワタ』を律儀に実行しているあたりが可愛らし……ではなく、変態くさい。そして彼女の辞書には、懲りる、という言葉は無いようだ……しかしもう何も言うまい。
「で、これからどこで何するつもりですか」
ボソボソと問うと、嬉しそうな笑みが返ってきた。
「あなたも暇なんでしょう。一緒にいらっしゃいな」
「構わないが、どこへ」
「行ってのお楽しみ、よ」
どうせロクなことではないのだろうと思いつつ尋ねると、彼女は更に嬉しそうにそう答えた。で、その後に階段を降りて到達したのがここ、漕ぎ手席である。
ほんと何するつもりなんだろう、と固まっているとエイレンはさっさと監督の元に行き、二言三言ことばを交わしてルーカスに手を振ってみせる。
「OKですって」
ざっと辺りを見回し、明らかに動きが鈍くなっている漕ぎ手と交代すると、彼女は何ら躊躇することなく銅鑼の音に合わせて身体を動かし始めたのだった。




