16.お嬢様は叱られる(3)
「ああ、なんと有難い」
ダィガは巫女の手を押し戴き涙を流していた。異国の地で理不尽に捕らえられてから既に半月あまり。その間、巫女様はしばしば菓子、本や木版画などの貴重品を持って訪れ、ともすれば折れそうになる心を励まし続けて下さったのである。
特にアイラに面差しがよく似た、際どいところにのみ薄絹を纏った女神の画は心身ともに彼を慰めてくれた。巫女様の細やかな心遣いは流石、と感激したものだ。
その上に此度、彼女がもたらしてくれた朗報をきけば、もうこれは一生の忠誠を捧げても足りない程である。
「皇帝陛下が直々に、処理を急がせて下さっているの。きっと明日にでも出られるわ」
微笑んでそう告げる巫女様の、なんと神々しいことか―――
再び感動を露わにし、そのマントの裾に口づけようと跪いた時、ぴくり、と彼女が動きあらぬ方向を見上げた。
「来るわ」
何が。
「……どうして来るのかは分からないけれど、とにかく来るわ」
わたくし逃げなければ。
そう言い置いて巫女様は、驚いている商人を残しさっと牢を出て行ったのであった。
「どうしたんです」と問い掛けるルーカスに「別に」と生返事をしつつ、エイレンは急ぎ足で歩いていた。感じるのは強烈な神気。そして……
精霊は一般には意志を持たないエネルギー体と言われている。だが、曲がりなりにも精霊魔術を多少使えるようになった今、そればかりではないということが分かるのだ。
精霊は明らかに彼を歓迎し、喜びとしか表現しようのない波動を伝えてくる。
きっと彼と共に妹弟子もいるのだろう。それに、この強烈な神気は聖王国の神。
アリーファには会いたい。お父様は無事だと伝え、ついでにアレコレとつついて怯えさせたり怒らせたりしてみたい。ハンスさんはまぁ、どっちでも良いが。
けれど、彼は困るのだ。
治療法を間違えたわ、と彼女は悟った。それは記憶の底に埋め込み、忘れれば済むものでは無かったのだ。
気配を感じるだけでも、鼓動が跳ね上がる。耳が熱くなり、身体がこわばっていうことをきかなくなる。
いつの間にか飲んでいた甘い毒は、忘れていた間も全身を駆け巡り身体の奥深くまで浸潤していた……マズい。本人を目の前にしたら、己が何をするか分かったものではない。
とりあえず、普段通りに。わたくしならできるはず。
そう己に言い聞かせた時、火山灰で造られた白褐色の長い廊下の向こうに、懐かしい面々の姿が見えた。おおーい、と手を振っているのはアリーファである。
ルーカスが問う。
「お知り合いですか」
「いいえ。人違いではないの」
エイレンは表情を動かさずに答え、ツカツカと早足で歩く。
そして、聖王国から来た親しい知り合いたちを一顧だにせず、そのまま傍らを通り過ぎたのであった。
「なにあの態度」
いったん振った手を下ろし、アリーファは憤然として握りしめた。船で4日プラス馬車で3日かかるところをハンスさんに頼み4、5時間で連れてきてもらったのは父のためとはいえ、もちろんエイレンに会えることも期待していたのだ。
そして「ここだ」と自信たっぷりにハンスさんが言った場所はなんと守備隊併設の牢獄。それが分かった時には驚き腹が立ったものだがその分、父のいるという房へ向かう途中でエイレンの姿を見掛けて嬉しかった。きっと捕らえられている父を気遣ってくれているのだろうと思ったからだ。
なのに、当の本人はといえば、眉1つ動かさずこちらのことをガン無視してくれたのである。まるで全く見えていないかのような見事なスルーであった。
「まさか本当に忘れてるんじゃ」
エイレンなら有り得る、と呟くとハンスさんが苦笑した。
「いや照れてるんだろ」
後でもまた会えるさ、とハンスさんが歩き出した時、それまで黙っていたリクウが動いた。
「師匠……?!」
その顔を見て、アリーファは愕然とした。目の下のクマがすごく、普段の穏やかな表情が抜け落ちてさながら幽鬼のようである。
その青ざめた口から漏れるまじないの音に従って、何処からか黒い蔓がスルスルと伸び、エイレンの足に絡みついた。そして、レイピアを抜いてそれを斬ろうとしていた腕と手にも。ルーカスも同じくサーベルを抜くが、蔦は幻影のごとく、斬られても揺らぎさえしない。
リクウの喉がクッ、と鳴った。
「ああ……それは物質では斬れないんですよ」
恐い恐すぎる誰コレ、と半泣きになるアリーファに対して、エイレンは一見、冷静だった。
「あら師匠。このような便利な技があるのなら、教えて下されば良かったのに」
「ダメです」
その手の動き1つで、蔦はズルズルとエイレンをリクウの元に引き寄せる。
絶対に激怒してるはず、とアリーファはエイレンを見すたが、意外なことにその顔は謎めいた微笑を浮かべたままだった……まさか本気で彼女が固まっているとは、思いもしないアリーファである。
ぽん、と師匠の手がエイレンの頭に置かれた。
「ダメですよ!」
珍しく語気強くもう1度言う。あれ怒ってるのってもしかして師匠の方?と首をかしげるアリーファ。
「挨拶は人間関係の基本でしょう!会っても無視するわ婚約しても報告はよこさないわ……」
あー師匠あれ見たんだね。そりゃ見えるよねあの手紙の重ね方じゃあ。そっかそれで固まってたんだねあの時。ていうか気になるなら聞けばいいのに。素直じゃないなぁ。
そんなことをツラツラと考えていたアリーファは、最後の師匠のひと言に目を丸くした。
「お父さんは君を、そんな子に育てた覚えはありません!」
その言葉に、面白そうに見守っていたハンスさんがついに吹き出し、一方で、エイレンの表情があざやかに変わった。凝り固まった微笑みから実に悪戯っぽい眼差しへと―――
「師匠」
黒い蔓が絡まったままの両手を彼の頬に添え、少し背伸びをして、その青ざめた唇に短いが親しみを込めたキスを贈る。
黒い蔦がぱん、と弾けるように消えていった。
「目が醒めたかしら?」
「……すみませんちょっと睡眠不足で」
気まずそうな表情のリクウに、分かっているわよ、と返してエイレンはその首に抱き付いた。
「会いたかったわ」
えーと、とアリーファは傍らで所在なげに立ち尽くす、エイレンの連れの青年に説明する。
「婚約者さん?あの子は師匠にはいつもあんな感じなんでお気になさらず」
「……いや婚約者ではないし気にもしていないが」
「そうなんだ」
「そうです」
さて、とひとしきり笑ったハンスさんが明るい声を上げる。
「俺帰るわーあんまり国を空けておくわけにいかんから」
「あ、ちょっと待って報酬!」
アリーファが慌てて言うとハンスさんが不思議そうな顔をした。
「ん?あんなの冗談に決まってるだろ?」
「でもここまで付き添ってもらったし……」
「いや、いいわ。お嬢ちゃんに無理やりそんなことさせたら俺多分エイレンに殺されるから」
「別に無理やりとかじゃないから!」
「へ?」
アリーファは意を決したように、ワケが分からん、といった表情のハンスさんに近寄り……
ちゅっ。
その頬に小さくキスをし、真っ赤になってぱっと離れる。
「えーまじで!いやーサンキュー!」
嬉しそうに笑ってハンスさんは姿を消し、後にはそれぞれに複雑な表情をした面々が残ったのであった。




