15.お嬢様は脱走する(3)
開け放たれた書斎の窓から入る爽やかな初夏の風を受けて、ルーカスことフラーミニウス(次男)氏はひとり、呆然と佇んでいた。
やられた、と歯ぎしりする視線の先にあるのは、バルコニーの手すりから垂れ下がる、切り裂いたシーツを繋げて作成した紐である。
『星の病』の高熱で伏せっていたはずの犯人は、今頃してやったりと高笑いしているのだろうか。彼女の看護をしていた貧民の子供も居なくなっているところを見ると、あの紐は彼を言葉巧みに巻き込んで作ったものに違いない。
外出は2日前までに申請、というルールは、彼女が倒れるまでほぼ毎日貧民街に通っていたため、既に無いに等しかった。自分にひとこと言うだけで良いのに、その労力よりこっちを選ぶのかあの女は。そう思うと噛みしめる歯にもより、力が籠もる。
(きっと理由は「一度やってみたかった」とか、そんなところだろう!)
どこに行ったか、と考えて思い当たるのはマフィアのボスにヒマの毒を「燃やしちゃった」と言われた後の会話である。
「こうなったらわたくし、腕によりをかけてお兄様をもう一度口説くことにするわ!」
宣言するエイレンに、ルーカスは冷めた目を向けた。
「また結婚してくれ言われますよ」
「どうしてあなたが知っているの」
「あ、兄から聞きました」
あらそう、とあっさり納得するあたり、兄が余計に気の毒である。エイレンはビジネスライクな口調で説明した。
「ノートースから毒を手に入れるのも少し難しいようだから、報酬が専属契約だというなら期間は半年程度は要ると思うわ。それで納得していただけないか交渉してみるつもり」
「止めて下さい。フラーミニウス家を踏みにじるつもりですか」
「あらなぜそうなるのよ」
たかだか半年で破綻する結婚など物笑いの種でしかない、という認識が彼女には欠けているらしい。ルーカスは小さく歯ぎしりしてから、別の提案をした。
「守備隊の南都支部に押収品が保管されています。私が行って、取ってきましょう」
「査問会は」
「バレないようにします」
「フラーミニウス宰相には」
「それも、バレないようにします」
エイレンは目を丸くしてルーカスの顔を見て、それから白い頬に親しげな笑みを浮かべ、ではお願いね、と彼の手を握ったのだった。
しかしお願いね、と言われても信用してはいけないのがあの女だ。大方、こちらが下準備に手間取っているのにしびれを切らし、フラーミニウス家か南都の守備隊にでも乗り込むつもりなのだろう。
さてどちらから行った方が捕獲成功率は上がるだろうか。
考えながら、ルーカスはせかせかと踵を返したのだった。
※※※※※
そんなフラーミニウス(次男)氏の思惑を大いに外して、エイレンは丘の上でのんびりと、遠くに輝くティビス運河を眺めていた。
「濁り川も見る場所を変えれば、こんなに美しく見えるのね」
「でしょう」
隣に座って自慢気に言うのはティルス少年である。兄の死を知ってから一昼夜明け、彼はとりあえずの元気を回復していた。
貧民街の住民は身近な者の死に慣れすぎているのだ。立ち上がり、明日も生きていくために悲しみを素早く受けいれる術を知っている。
「まるで姫様の髪みたいに、金色でキラキラしてきれいですよね」
「……末恐ろしい子ね」
「どうしたんですか?」
「いえ別に」
無邪気な賛辞から、ついうっかりタラシの血筋を感じてしまうエイレンだったが、ティルスに他意は無い。純粋そのものの眼差しは眩しいばかりで、このまま晒されていては砂にでもなってしまいそうだ、とエイレンは立ち上がった。
「行きましょうか」
わざわざフラーミニウス(次男)氏の目を盗んで脱出した目的は、ピクニックだけではない。聖王国から持ち出した小さな骨を埋葬するためだった。
「これしか無いのだから、あなたが持っていれば良いのに」
アクセサリーに仕立ててあげましょうか、という提案をティルスは却下し、兄が1番好きだった場所に埋めると言ったのだ。それがここ、南都の外れの丘なのである。
「そこに大きな樹があるでしょう。その下がいいと思うんです」
昔よく遊んだというその樹の下は、細やかな白い花が群がるように咲いている。そこに小さな穴を掘り、布で包んだ骨を納めて土を落とす。
作業の間言葉は無く、ただ子供の頬を伝う涙が、黒い土に1粒ずつしみこんでいく。
土をかぶせ終えてふと見ると、眼下には煉瓦で整備された街並みがあった。後ろを振り返れば、色が変わり始めた麦畑が漣をたてている。
『美しいだろう』
耳の奥で、カロスの自慢気な声が響く。
『帝国に着いたら、絶対に君をここに案内したかった』
敗北3回目、と思いながらエイレンは両手で顔を覆い、遠い昔に泣かなくなって以来、初めての涙を流したのだった。
「兄は僕を学校に行かせたがっていたんです。母が亡くなって以来、行けなくなっていたのを気にしてて」
埋葬の目印に置いた黒い石を挟んで2人が腰を下ろすと、ティルスはぼちぼちと語り始めた。
あの銀貨を2つに分けた日、カロスは嬉しそうにこう言ったそうだ。
『成功すれば報酬で、お前を上の学校までやれるぞ』
「あら、それならあなたは学校に通う資格があるわね。そのお仕事、確かに成功はしているもの」
何しろ聖王国の『一の巫女』は結局帝国に来ているのだから。
「皇帝陛下に頼んでみましょうか」
とエイレンが提案すると、ティルスは気まずそうに下を向いた。
「それが僕、実はあんまり勉強好きじゃなくて……兄はちょっと思い込みが激しいというか」
ああ、めちゃくちゃよく分かる。
「ハタ迷惑よね」
つい冷たい眼差しで頷けば、子供は不思議そうにエイレンを見た。
「あの……恋人、じゃなかったんですか?」
「わたくしとあの人の関係をそのように安直な言葉で片付けないで下さるかしら」
「は、はい。すみません」
「でも、そうね」
再びうつむくティルスに、語気をやわらげてエイレンはそっと耳打ちする。
「もし立場が違ったなら、きっとあの人のこと大好きになっていたわ」
それが、心の奥底に沈めたまま、誰にも言うことはないと思っていた彼女の本音であった―――




