15.お嬢様は脱走する(2)
うん、と枕元からした小さな声にエイレンが目を向けると、そこには先日に貧民街から拾った子供の頭が乗っていた。どうやら寝落ちしてしまっているらしい。
当初は痩せこけて薄汚れていて少年とも少女とも分からなかったが、やがて回復してみれば、長い睫毛に整った優しい顔立ちが女の子にしか見えない……男の子だったのだ。名をティルスという。
その顔をエイレンはまじまじと見つめた。
(カロスに似ている……といえばそのような気もするけれど)
勘違いといえば勘違いのようでもある。確かに茶色の髪も、閉じられた瞼の奥の淡い青の瞳も同じだが、生粋の帝国北部の人間なら大体皆そうなのだ。
そもそも、仮にこの子が聖王国で死んだカロスの弟だったとして、何と伝えれば良いのだろう?あなたのお兄さんは聖王国でスパイ扱いされて処刑されました……などと言われれば、下々のしかも子供など100%崩壊するのではないだろうか。
うん、とティルスはまた小さく言って目を開けた。途端にエイレンと目が合い、すみません姫様、と慌てて起き上がる。貧民街育ちなのに丁寧な言葉遣いに訛が無い発音は、彼の母親が生きていた頃は南都の皇立学校に行っていたからだ、と聞いていた。
「熱は下がられたんですか」
「熱?」
首を傾げれば、覚えておられないんですか?と説明された。
「一昨日の夕方、帰られてから急に倒れられたんですよ」
「そう……だったかしら」
情けない、とエイレンは頭を抱えた。なんとなれば、立派な精霊魔術師は風邪などひかぬからである。体内に宿る精霊のバランスを常に保つのがその秘訣だというが……そんなことにかまけていられない、とつい思ってしまう。
精霊魔術が使えるようになった、と浮かれていたが、まだまだ先は長い、ということを突きつけてくるのが現実である。
「『星の病』じゃあ仕方ないですよ。僕はかかったばかりだから当分大丈夫だそうですが」
それで周囲にティルス以外の人間がいないのだ、とエイレンは納得した。
「ずっと看病してて下さったの?」
「大したことじゃないですが、ご恩返しになっていればいいです」
「じゅうぶんよ。ありがとう」
はにかむティルスにエイレンは微笑んだ。子供がすべからくこのようであれば、貧民街はかなり平和になるだろうに……と、ふと思う。
「あの」
ティルスが何か言いかけ、だが言いにくそうに口ごもった。
「その、差し支えなければちょっとお伺いしたいのですが……」
「何かしら」
「兄を、ご存知なんですか?」
「なぜそう思うの?」
「あ、あの、お休みの間に、兄の名を呼んでおられたのが聞こえて」
―――このわたくしが寝言で彼の名を呼んだというの?!
なんだか物凄い屈辱を感じるエイレン。夢に見たことで1回敗北だとは思ったが、三文芝居のごとくに寝言に出すなど……カロスのいい気になった顔が目に浮かぶようである。
その瞳の奥に吹き荒れるブリザードに、慌てたようにティルスが言った。
「あ、あのもちろん単に同じ名前だってだけかもしれないですけど!」
「そうね。おそらくそうではなくて。わたくしに貧民の知り合いなどいなくてよ」
「で、ですよね……」
ティルスが少しばかりうなだれる。
あぁもう、フラーミニウス(次男)では無いけど歯ぎしりしたい気分だわ、とエイレンは奥歯をそっと噛みしめた。
だが、いつかは確かめねばならないことだ。珍しく慎重に言葉を選びつつ、話を切り出した。
「……あの人は帝国からきた留学生の神官だったわ」
「お知り合いの方のカロスさんが、ですか」
「そう。帝国から聖王国に留学にくるなんて、神官くらいのものよ。弟と分けた、と半分に切った銀貨をお守り代わりに持っていたわ」
ティルスの顔色が若干変わった。
「そういえばあなたも持っていたのだったわね」
ティルスは頷き、首にかけていた組紐を外してエイレンに見せる。彼を拾ってきた時にはヨレヨレの革紐だったものを、色合いの美しい組紐に付け替えたのはダナエだった。
エイレンの手の中で半分に切った銀貨がきらりと光ったが、しょせんはどこにでもあるものだ。
「帝国ではこういうお守りが流行っているの?」
「そうですね、親しい人が遠くへ旅する時などは、よく……流行というより習慣です」
なるほど、とエイレンは頷いた。
「わたくしもあの人から貰ったわ」
「分けたんですか?」
「いいえ、亡くなる前に、あの人のものを。ラッキーアイテムだと言っていたわね」
亡くなる、という言葉にぴくりとティルスが震える。ずっと音沙汰の無い兄と重なってしまうのだろうか。
「見てみる?その戸棚の向かって左奥の、麻のワンピースが入っている箱よ……底の小さな袋。そう、それ」
取り出された袋を開けると、中から半分に切った銀貨と白い小さな骨が出てきた。銀貨の方を手に取り、ティルスに渡す。2つの銀貨の欠片を合わせると、それはきれいな円になった。
子供は手の中で銀色に輝くその1枚の硬貨を長い間じっと見つめ、それからぎゅっと握りしめた。
震える小さな肩をそっと抱いてやると、その喉から嗚咽が漏れはじめる。ひっく、としゃくりあげるその声は、やがて静かな泣き声へと変わっていったのだった。




