4. お嬢様は殴られる(2)
4人は足早にエルとクーの小屋へと向かう。歩きながらエイレンは、リクウにレイピアを預けて囁いた。
「わたくしこれから殴られるから、気絶するまで止めないで」
「正気…ですよねもちろん」
「その通りよ」
クーの説明によると、エルは料金のことで客とトラブルになったらしい。馴染みの客だったが「これからは銀1枚以上、銅貨1枚たりとも負けない」と宣言した彼女にキレて殴りかかってきたのだという。
じゅうぶん想定できた事態なのだから対処法をもっとしっかり伝えておくべきだった。そう思う一方で、これは使える、とエイレンは計算したのだ。
エルとクーの小屋からは切れ切れに男の怒鳴り声が聞こえてくる。
「わたくしが倒れたら男をつかまえて、それから守備隊に知らせてちょうだい…そしてこれを守備隊長に渡して、殴られた女の物だと言って」
腕に巻いていた細やかな銀鎖のブレスレットを外して精霊魔術師特有の裾の長い上衣のポケットにねじ込み、エイレンは開いたままの扉に足を踏み入れた。
エルは部屋の隅で毛布を頭からかぶりうずくまっている。それを引き剥がそうとする男。攻防は激しいが、毛布を剥がすことに熱中した客は、殴る方を忘れているらしい。エルの作戦勝ちである。
「オマエはっ!もうオレと逢えなくなってもいいのか!!どうなんだコラ!」
なんら構わないから値上げ宣告されたのではなかろうか。そんなことにも気付かないなんて相当なバカなのね、と思いつつエイレンは男の肩に手を置いた。
本音を言えば蹴り上げてやりたい。
「お待ちになって。料金を上げるよう、この子に勧めたのはわたくしよ。殴るならわたくしになさい」
「オマエのせいか!オマエのせいで、オレのエルが変わっちまったんだなっ!」
「そうよ。良かったでしょ?」
誰が見ても「コイツバカにしてやがる」と分かるとびっきりの嘲笑を唇に乗せて上から見下ろした途端、アゴに1発、渾身のパンチが見舞われた。
エイレンの身体が軽く吹っ飛ぶ。
その態勢のまま下から見上げ、さらに挑発する。
「あらぁ、なかなか良いパンチね。でも残念。その力を稼ぐ方には活かせないなんてねぇ」
「うるさいっ」
今度は脇腹を蹴られた。
「痛いわ。たかだか半銀程度の値上げでそんなにキレるなんて、本当に甲斐性ナシのクズなのね、あなた」
「黙れこのクソ女っ!お高く止まっても所詮は川原の掃き溜め女のクセに!!」
「ほほほ、惨めね。これからはその掃き溜めすら食えなくなるなんて、お気の毒なこと」
「エルはオマエに騙されてるんだっ!オマエさえ成敗すればっ!」
「ロクに物事を考えたことのないユルユル頭のあなたにも分かりやすく言って差し上げるわ…貧乏人には用はねーんだよこのド畜生め…なんて、動物さん達に、悪いわね」
もはや、めちゃくちゃに殴る蹴るされているエイレンだが、その減らず口は収まる気配を見せない。
「年中発情期の、何の役にも、立たない自己中男なんて、飼う価値もない、もの、ね」
神殿の巫女だった時代に経験してきた地獄の軍事サバイバル訓練と比べれば、一般庶民の攻撃など耐性の範囲内だ。
とはいえ、肋骨は既に何本か折れている。体重をかけて腕を踏まれ、骨がいやな音を立てた。
「はい、そこでストップです」リクウが難なく割って入り男の手をねじ上げる。
「なかなか使えるのね、あなた。思った通りだわ…でも、わたくしまだ気絶していなくってよ」
息をするのが少し苦しい。
「大丈夫ですよ。それだけ怪我をしていれば、証拠じゅうぶんです」リクウが請け合った。
「よくガマンしましたね」
「ええ、わたくしも本当にそう思うわ」
しみじみと言った。限界きてうっかり相手を半殺しにしたりしなくて、本当に良かった。
「ちくしょうっ、だましたんだな!」
「違いますよ。僕は暴力が嫌いなだけですから。あ、ちょっとこの人縛ってくれますか」
わざとのようにのんびりとリクウが言うと、待ってましたとばかりにセンとエルが男に縄を掛け始めた。昼間、シーツを干すのに使ったものだ。
「はなせっ…痛ッ」
「今の状態で暴れるとかえって痛いですよ。お気の毒ですが大人しく縛られて下さい…あ、そこ縄が擦れると痛いから布挟んで」
誰に対しても極力親切な男、それがリクウである。
クーはエイレンを助け起こした。
「姫さん、大丈夫?」
「ええ」
実は触られると折られたらしい腕が猛烈に痛むのだが、なるべく平静を装って頷く。
「それより申し訳ないことだったわね。わたくしがきちんと教えておかなかったばかりにこんなことになって」
「姫さんのせいじゃないよ。エルもこうと決めたら頑固なところがあるからねぇ」
「では僕は詰め所に行ってきます」
リクウが誰にともなく言い、開いたままの小屋の戸をひょいとまたいだ。
「ちょっと精霊魔術師さん。先に姫さんの怪我を治しておやりよ」
センが声を上げるのを、エイレンが首を振って止める。
「いいのよ。この怪我はこれから使うのだから」
センはやれやれと溜息をつき、クーは不思議そうな顔をし、エルは期待に満ちた眼差しをエイレンに向けた。
この姫さんはやっぱり、普通じゃない。




