15.お嬢様は脱走する(1)
おそらくは、きっかけなど何でも良かったに違いない。
「落としましたよ」
彼が笑顔で差し出したものは、半分に切った銀貨に穴をあけ銀の鎖を通した首飾りだった。
「あら、そのようなみすぼらしいものがわたくしのものだとおっしゃるの」
「勘違いでしたか。失礼しました『一の巫女』様」
眉1つ動かさずに言ったエイレンに、彼は一般には爽やかだと言われるだろう笑顔を向け、丁寧に帝国風の礼をしたのだった。
それからの彼は、あからさまにエイレンを追いかけ回してきた。駆け引きも何もあったものではない。彼女を見つけると嬉しそうな笑顔を作り、話し掛けてくる彼は神殿関係者の嘲笑のタネだった。身の程知らず、と。
「あなた大概になさいな」
忠告したのはいい加減ウンザリした頃だった。
「わたくしはいずれ国王の側室になる者。人目かまわずそのような素振りをなさっていると、そのうち粛清されますわよ」
「では人目の無いところなら良いんですね」
ぱっと顔を輝かせ、彼は斜め30度ほどずれた解釈をしてみせたのだ。
「晩鐘後に施療院裏手の林で待っています」
「わたくしが行くと思っているの」
「お出でになるまで待ってますよ」
その発言で、エイレンはキレた。
『一の巫女』にちょっかいかけようとする者の魂胆など、ロクなものであるはずがない。その真っ黒な腹に隠されている物を暴くこともせず見逃してやろうという慈悲を、下郎の分際で明後日の方向にぶん投げるのか。
しかもかような陳腐な手段で陥とせるなどと考えるとは許し難い。
(お望み通り死ぬが良いわ!)
その夜、十日月が沈みかけた頃にエイレンは林を訪れ、まだ待っていた彼に半ば呆れ半ば感動したフリをした。以後は彼の背後関係を探りつつ、腕によりをかけ『気位は高いが実は素直で純情で優しい』令嬢を演じたのであった(お手本は姉である)。
幾度も繰り返される、お互いに本音を見せぬ甘いささやきや、いかにもな贈り物に遠慮がちなキス。いつの間にか繋ぐことが当たり前になっていた手の中に、真実の気持ちが欠片でもあるとは思ってもいなかった。
やり過ぎた、と気付いたのは捕まった彼が脱出を断った時だった。
「大丈夫よ。信頼できる者に頼んで、手筈は整えてあるの。わたくしが大人しく側室になりさえすれば、あなたに追っ手はかからないわ」
「君がそう望んでいるのか。側室になりたいと?」
そう真っ直ぐ見つめられれば、嘘がつきにくい程度には親しくなってしまっていた。
「当然よ、役目だもの。わたくしのことなど気になさらずさっさとお逃げなさいな。さもなければ一生嫌いになるわよ」
「考えておくよ」
彼は苦しそうに笑った。そんなやりとりが3回、4回と続くうちに処刑が決まった。
最後に会ったのは春が来る直前の雪の降る日だった。彼のために身代わりの用意があるのだと伝えると、彼は一瞬驚いた顔をした。
「君らしくないな」
「あなたがグズクズしているからでしょう」
無理にでも逃がそうと、その日は侍女を2人連れてきていた。うち気分が悪い方の1人は酩酊状態の囚人であり、彼と入れ替える予定だった。
「側室になるのはやめるわ」
彼の淡い青の目が、驚きで見開かれる。エイレンは彼の背中に抱き付いた。
「一緒に逃げましょう」
耳元で囁きながら顎の下に腕を回し、首を締める。これさえ終われば彼との縁は切れるのだ。後でどうとでも思うが良い。
しかし彼の対応は素早かった。背中からきれいに投げられ、エイレンはとっさに受け身をとる。忌々しい、と舌打ちしそうな勢いで睨んだ先にあるのは、穏やかな眼差しだった。
「まさか最後に君を投げることになるとは思わなかったな」
「バカね。さっさと落ちれば良かったのに」
「もうとっくに陥ちてるさ。分かっているだろう?」
彼はエイレンを抱きしめ、苦笑混じりに囁いた。僕の負けだ、と。
「ではもう一度命じるわ。逃げなさい」
「逃げなければ、一生嫌いでいてくれるんだろう?」
「何言っているの。全身全霊かけて記憶の彼方に廃棄して差し上げてよ」
「そうしないと忘れられないくらいに、僕のことを想ってくれるんだろう?」
どうしても聞く耳持たぬ男に苛立ち、エイレンはついに、ギリギリ若干残していた『実は素直で純情で優しい』令嬢の仮面を打ち棄てた。
「冗談ではないわ。バカでうっとうしい上に頑固な男など願い下げよ。あなたが死んだら骨に史上最大の愚者と落書きし両目の穴に蝋燭灯して吊して差し上げるわ」
「ああ骨は拾ってくれるつもりなんだね」
「救いようがないわね」
「いいかい。僕を救ってくれる気があるなら」
今のこのひとときだけで人生を満たそうとするかのように、彼はその頬をエイレンの頬に押し付け、ゆっくり言い聞かせる。
「君は君の望み通りに、生きてほしい。行きたいところに行って、したいことをするんだ。決して君自身の心を裏切らないで」
神殿と国のために生きることしか考えたことのないエイレンには、それはバカバカしい自己犠牲精神としか思えなかった。酔われても迷惑なだけだ、と冷たい瞳で言い放つ。
「望みや心など、わたくしには過ぎたものよ」
「だから僕が冥界神から買い取って君に捧げるよ」
「迷惑千万な押し売りだわね。そんなことでわたくしは感動しないわよ。あなたの買い物など地面に叩きつけて踏みにじって差し上げるから」
本性を晒して罵っても、彼の決意は変わらなかった。微笑んで半分に切った銀貨を通した鎖をエイレンの首にかける。
「持っていてほしい。聖王国に発つ前に、弟と半分ずつ、お守りにしたんだ」
「そのようなみすぼらしいものをわたくしが後生大事に持っているとでも?」
「ラッキーアイテムだよ」
彼がそっと鎖を撫でる。冷たい指先がエイレンの鎖骨に触れた。
「これを使ったら、きっと君と話せるようになると思ったんだ。初めて返事をしてもらえた時は嬉しかった」
男の瞳は柔和な光を帯びていたが、その見つめる先には過去と死しかないようだった―――
長い夢の後、ふと目が醒めれば、枕がわずかに濡れていた。
事前に彼が突っ走る性格だと知っていたら、多少のちょっかいなどには耐えて放置していたのに、と思う。ついつい子供っぽく意地を出してしまった己の判断ミスが返す返すも口惜しい。
(けれど、悪いのはあの人よね。どちらかといえばわたくしの方が、あのしようもない自己満足男の被害者よ!)
しかし何十回となくそう結論付け、地獄の底でこの世の終わりまで反省するが良い、と呪詛し、二度と思い出しなどしない、と誓っても、ふとした拍子に意外なほどに鮮やかに蘇ってくるのだ。
その表情の1つ1つ、常に笑みを含んでいるような穏やかで明るい声、抱きしめられた時のぬくもりとほのかな香りが。
エイレンは小さく溜め息をつき、不用意にその名を投げ付けてきたハゲ頭を呪ったのであった。




