12.お嬢様は慈善活動をする(2)
子供が片手で小屋を指さしながら、片手でこちらに向かって手を振った。
「カルウスおじちゃん優しいんだよ、助けてあげてね」
ありがとう、と答えて2人は鍵の無い扉を開け、小屋の中に入る。
寝床しかない狭い部屋には湿った匂いが充満していた。
「カルウスさん」
敷き藁の中央に眠っている禿頭の男に声をかけながら覗き込み、エイレンは何ともいえない顔をした。瞼をひっくり返し、脈をとった後に宣言する。
「亡くなってるわ」
「では後ほど管理局に連絡ですね」
小屋のおおよその位置やカルウス氏の特徴などを素早くメモするフラ次。その手が、ぽつりと独り言のように放たれた台詞に一瞬止まる。
「もし分かったら、あの子たち悲しむでしょうね」
「そんなバカ正直ではないでしょう 貴女は。昼間食べたものが古くなっていたのかな」
「もちろん言うつもりはないわよ」
エイレンは肩をすくめた。
ただふとそう思っただけである。でもまさか、己がそんなことで心を多少なりとも痛めるようになるとは。
小屋を出て子供たちに、カルウスさんはまだ熱があるから近付かないように、とだけ告げて次に案内してもらう。
「絶対に治してね」「また戦いごっこするんだ。あいつすげえ悪者なんだぜ」とカルウス氏のことを口々に言うのを聞くと彼がよほど慕われていたのかとまた胸がちくりと痛んだ。
しかしこの地区の住人は皆、仲が良いらしい。それぞれの小屋に訪れる度、子供たちのからは同じような声が上がる。
その願いは叶えられそうな場合もあったが、全く無理だとひと目見て分かるケースも多かった。
精霊魔術で熱を少し下げれば、よく眠れるようになり食欲が回復しそうな時は前者だ。だが、とエイレンは即時に判断する。
目の前の餓死寸前は後者だ。
10歳前後の子供のようだが、もともと栄養状態が悪かったのか痩せて腹だけが膨れて見える。病気にかかった後は飲み食いなどほとんどできなかったのだろう。
今は熱や咳を出す体力も無く、横たわった身体はただ、終わりが来るのを待っているように見えた。こうなればもう、ヘタな治療は苦痛を長引かせるだけだ。
せめて身体を拭いてやろう、と絞った布をその額に当てた時、虚ろだった目が動いた。痩せて黒ずんだ顔の中で、その空色の瞳だけが澄んだ光を湛えてエイレンを捕らえる。
苦しんでも、生きることを選ぶ瞳だった。
もし『一の巫女』であれば、ここからすぐに立ち去りほかに救える者を救わねばならない。
(でもわたくしは今、ただのお節介焼きよ)
子供を膝の上に抱きかかえるようにして姿勢を起こし、片手で鼻を塞げば自然と口が開く。その隙にもう一方の手で、飲み水で薄めた薬をほんの少し垂らす。
1滴、2滴……
水は乾いた口をわずかずつ潤し、ついに。
ごく、と小さな音を立てて喉の奥に吸い込まれていった。
「飲んだわ」
ほっとした表情で、エイレンがフラ次を見た。
「5分ごとに1口ずつ、それから1時間後からは徐々に薬を濃くしていくのよ」
「だから何ですか」
「今夜はわたくしを返さないで」
「それは許可できません」
「ではこの子を連れて帰るわ」
フラ次はしばらく考え込み、では私が運びます、と言った。
馬車が皇都へ向かって動く間も、エイレンは子供の頭を膝に乗せ、ほぼ5分起きにきっちり薬の混ざった水を飲ませている。フラ次はそれを黙って眺めていた。
この薬も彼女が用意したものだ。確か葡萄酒に薬草と大量の砂糖を突っ込み煮出したとか言っていた。『星の病』の治療には滋養をつけることが大切なようだから、おそらくはそういう系統の薬なのだろう。
1日病人たちを診て回った後の彼女の服はすっかり汚れて、特にズボンの裾の方は病人が失禁した床の上にも平気で膝をついていたために異臭まで放ちそうな勢いだった。それでも彼女は「構わない」と言い切ったのだ。
「なぜそこまでするんですか」
問いは自分でも気付かぬうちに口から漏れていた。エイレンは注意深く子供に水を飲ませ、そのまま様子を観察しながら答える。
「感動するような理由はないわ」
「まぁそうでしょうね」
この女ならそう言うと、なんとなく思っていた。しかし子供に気を取られているせいか、彼女は普段なら黙して語らないであろう言葉を続ける。
「少し前に神殿を出た時は、庶民になればなれるかと思っていたのよね」
「なにに」
「何も為さずにただ息をしているだけでも、己に生きる価値があると思っている者に」
「今以上にそうなってどうするんですか」
思わずツッコむフラ次。どう考えても彼女は己が世界の中心なタイプではないか。
「もちろん国を滅ぼすのよ」
エイレンの目が生き生きと輝いた。
「わたくしたち神殿の女を当然のように利用し繁栄を享受してきた連中を蹂躙して足下に平伏させ、これから利用しようとしている者は利用仕返し、己のためにのみ生きて好き勝手に暮らすの」
「そのために帝国を利用するつもりだったと聞こえるが」
「正解」
反省の欠片もなくにんまりとしたその顔は、しかしすぐに憂いに染まる。
「でも難しいものね。知れば知るほど、取るに足らない者たちが大切に思えてきてしまって……そしてもしも、大切な者たちのために使えないとしたら、この命なんて塵以下でしょう」
なぜここで「そんなことはない」などと優しい言葉を掛けてやりたくなるのだろう、とフラ次は考えた。相手は陛下の命令さえなければ自ら成敗したい程の極悪女だというのに。
そんな彼の気持ちなど全く意に介さぬ様子で、女は膝に乗せた子供の頭を慈しみ深く撫でている。
「何もしていない時は深くて暗い穴に落ちていくような気さえするわ」
その結果として、家出前と同じようなことをしてしまっているのだ。エイレンは子供に薬を少し濃くした水を飲ませながら呟くように尋ねた。
「ねぇフラ次さん、わたくしいつになったら思い切りヴァカンスを満喫できるようになるのかしら」
「知ったことではないですね」
相変わらず子供に注目している女の顔を眺めながら、彼は先程から感じている違和感の正体を探っていた。
そして思い当たる―――それはきっと、名前のせいだ。




