ドジっこ
「ねぇ……挟まっちゃったの。助けてくださる?」
タケナカは艶っぽい女の声を耳にして、キョロキョロとあたりを見回した。しかし、昼日中の往来には誰もいない。
「挟まったって……ドアか何かか?」
それとも、どこかでテレビの音声が流れたのだろうか……そう考えて立ち去ろうとした時、また女の声がした。
「ドアじゃないわ。隙間よ」
テレビじゃない、明らかに誰かに向けて発した言葉だ。
タケナカは今度こそ、声の方角を突き止めた。古いビルとビルの間に、女の手がゆらゆらとうごめいているのが視界に入る。
色の白い、ほっそりとしたしなやかな腕だった。その腕と指の揺れ動く様子にふっと引き込まれそうになるのを、タケナカは自覚した。
「助けてくださる?」
顔は見えないが、相手は美女だと確信した。昂揚する本能がそう告げている。
彼女を助けた後は、そのまま「はいさよなら」ということはないだろう。親切ごかしに世話をしてやれば、あるいは――そんな考えが彼の脳内に充満する。
「あんた、どんだけドジっ子だよ……」
タケナカはにやつく頬を押さえつつ、ビルに向かって歩み寄る。
しかし、ふと立ち留まった。
「……ビルの隙間?」
確かに女の手はビルの隙間から伸びている。
タケナカは以前、その隙間に猫が逃げ込んだのを見たことがあった。まだ小さい子猫で、大きな野良猫とおぼしき相手に追い掛けられていたのだ。
その隙間に逃げ込んだ子猫を追い、野良猫は勢い込んで隙間に突進したが……
「猫でさえ入れなかった隙間に、何故人間の女が入れるんだ?」
口に出してしまった途端、どっと冷や汗が湧いた。
「助けてくださらないの? お願い、こちらに来て……」
ゆらゆらと動く腕は、悲しげな声を発する。
次の瞬間、タケナカは弾かれたようにその場から逃げ出した。
ひとりの男がビルの隙間に挟まって死んだ、という奇妙なニュースが地方紙のすみに載ったのは、その数日後だった。
しかし、幅わずか十センチに満たない隙間に、その男がどうやって入ったのか――もしくは、入れられたのか――わかる者はいなかった。