人体の約六割は水で出来ています
サリエナからの依頼を受けることにした一行は、打ち合わせの後、彼女と共にボジャンとリリカが買い出し、モックがギルドへの依頼受理の手続きに行くことになった。
残るナナミと仙治は魔法屋の店内に戻り、魔法スクロールを購入していた。
本来、昨日この店に来た目的がそれだったのだが、サリエナと会話した後、彼女とカルッカは他の旧王国民と連絡を取るために奔走し始めたため、買い物どころではなくなってしまったのだった。
その様子や、昨日の今日ですぐに依頼を寄せたことから考えても、彼女たちがいかに王家の墓を大事に扱っているかがわかる。
「氷魔法の初級のものはある?」
「どんなのが良いんだい?」
「投氷は使える。別の形で使える物を」
「ふむ、そうだねぇ……」
カルッカが杖を振ると、店の奥にある魔法のスクロールが積まれた箱が一つ、ふよふよと浮き上がりカウンターの上まで飛んできた。
そこに積まれたスクロールのいくつかを選んで、封を解いてカウンターに広げていく。
「このあたりなんかどうだい?」
スクロールの中身を遠慮なく覗くナナミ。
文字や図形が描かれており、それが魔法の内容を示しているのだが、この世界ではそれらを読んだからと言って、すぐに魔法が使えるようになるわけではなかった。
「この氷風をお願い」
「はいよ。ここで使っていくかね?」
ナナミが頷くと、カルッカはカウンターの下から木の板を取り出した。板にはスクロールに書かれているような模様が描かれている。
模様の上に魔法のスクロールを丁寧に広げ、四隅に重石を置いてしっかり固定すると、ナナミはそのスクロールの模様に両手を乗せ、目を閉じて意識を集中し始めた。
人には聞き取れないくらい小さな声で呪文を囁くと、スクロールと木盤の模様が光った。
光は一瞬で収まったが、スクロールは急激に変色し、朽ちてボロボロと崩れて行った。
(これがこの世界で、スクロールを消費した状態ってことか……)
ゲームでは、使えば無くなる消耗アイテムだったスクロールだが、現実の書物や巻物は書かれていることを読んだからと言って消えてなくなったりはしない。ポーションのように飲めば無くなるものは別として、このような消費アイテムはこの世界では使用することで朽ち果てるという現象が起こるのだった。
そして、スクロールによって習得した魔法は使用者の頭の中に直接刻み込まれる。今ナナミが覚えた魔法も、すぐ呪文を唱えて使うことが出来る状態だ。
こうしたスクロールを作ることが出来るのは、魔法に精通した人物が得る特殊なギフトによるもの……という話は仙治も聞かされていた。明らかにゲームには存在しなかったギフトで、彼にその話をしたナナミ自身も詳しいことはわかっていない。
そうした珍しい存在のため、魔法屋はどこにでもあるというわけではない。実際、鍛冶の町として栄えているバスダも、それなりに大きな町であり魔法を使える者も冒険者を含めて多かったものの、魔法屋は一軒も無かった。
「そうだ、ナナミ。<水魔法Ⅰ>のギフトがあるんだが付与するか? ここで魔法も覚えておけば使えるだろ」
「……あまり多くの属性の魔法を覚えても、使いこなせない」
「ガルダーの追加魔力があるんだから、気にせずバンバン使って慣れて行けばいいんじゃないか?」
「……あまり、自分の能力に見合わない使い方は危険」
魔法やスキルはとりあえず手当たり次第覚えて、使えるだけ使う、というプレイスタイルはゲーマーなら珍しくはない。仙治もそういった思考だったが、魔法を現実のものとして扱うこの世界の人間にとって、それは危ない考え方と思われているようだった。
「それじゃあ幻惑魔法はどうする? もう付与してあるけど、使わないのか?」
「……いえ、幻惑魔法は使ってみたいものがある」
幻惑魔法は名前の通り、幻を見せ、人やモンスターを惑わす魔法だ。
幻と言ってもそれは目に見えるものだけとは限らず、五感や魔力の感覚などの多岐にわたる感覚を狂わせることが出来る。
グリンドの若作りの魔法は、視覚、聴覚、触覚までも惑わせる高度なものだった。あれは<幻惑魔法Ⅱ>という上位のギフトがあればこそ出来る魔法と言える。その才能を別の形で使えば、密偵や暗殺も容易く可能になると思われる。
(吸精を活かすために使ってるんだからある意味、有効活用しているのか……)
さらに一つの魔法を幻惑魔法のスクロールを使って習得し、代金を支払う。
初級の魔法一つあたりが一〇ルク。
ゲームでは魔法のスクロール一つ数千ルクからだったので、物価には大きな乖離があった。
この世界ではラグルク銀貨というものが安定した品質と量で、大陸中に流通しているらしい。この銀貨一枚を一ルクとした貨幣単位が大陸中に広まっていた。
どこへ行ってもルクという通貨単位が通用するゲームの設定が、そういう形でこの世界に現れているらしい、ということは仙治にも気付いたが、彼は社会学者でも経済学者でもないため、それ以上の詳しいことはよくわかっていなかった。
冒険者が護衛をしたり素材を集めたりと言った仕事で一日に稼げるお金は、だいたい五ルクから一〇ルクほど。
宿や食事などの一日の生活費は一ルクで十分に賄える。
一〇ルクの魔法スクロールがそれなりの価値であることがわかる。
二〇ルクを出したナナミの手に、なぜかカルッカが新たに魔法スクロールを一つ握らせて来る。
「初級スクロール二つお買い上げのお客様に、ひとつ追加であげようかね」
「……そんな気軽におまけするものじゃない」
「アイスの一段プラスキャンペーンか」
「キャンペーン?」
「いやこっちの話」
「ふぇっへっへ、気にせんでもそいつは売り物じゃあない。私たちかあんたにしか使えない代物さ」
「どういうこと?」
「モン王の血筋の者で無ければ発動させられない魔法だよ」
(ゲーム的に言えば特定のキャラしか使えないユニークスキルみたいなもんか……ラブラディア伝説にはそういうのは無かったけど、っていうのも今更だな)
「ガルダー様が自ら威光を示し、この平野に秩序をもたらすために作り上げた独自の魔法だよ。人もモンスターも、それを目にすれば驚くはずだ」
「そんな大規模な魔法を……?」
さすがはこの平野一帯を支配した王家の専用魔法といったところか。そのスケールの大きさに息を呑むナナミ。
カルッカは大仰に頷き、両手を広げるとその手から光を放った。
「なんと、実体のない魔法の液体を生み出し、発光させることが出来る」
「……光る、だけ?」
「そうだよ。王家の墓には常に王の遺体から魔力を得て、その魔法が発動するようになっておる」
「あれかー……」「あれかー……」
異口同音。ナナミと仙治は同時に呟き、肩を落とした。仙治は気分だけだが。
「ふぇっへっへ、確かに光るだけだが、ガルダー様ほどの魔力を持った御人がこの魔法を使えば、夜でも町一つ明るく照らし出すくらいのことも出来たのだ。その威容に驚いた獣やモンスターは容易くは近付いてこれん」
「確かに異様ではあるな……」
夜行性の野獣なども、あまりに明るく光る町には近づくことを躊躇うだろう。そういう意味では実際的な効用もある。
政治的なパフォーマンスとしても、強大な力を誇示すると同時に町の安全を王様が保証していることをアピールする効果もあるかもしれない。
「派手に光らせるの好きだっただけ……じゃないよな?」
「……わからない」
ガルダーが墓でノリノリで披露していたパフォーマンスを思い返すと、ナナミもはっきりとは答えられなかった。
「……しかし、血統が必要なら私には使えないはずでは?」
「いや……ナナミにはガルダーの魔力があるから、それで使えるっていうことか」
「そういうことさね」
三度、スクロールを使用して魔法を覚える。その一連の流れは先ほどまでと変わらない。
「使い方は普通の魔法と同じさ」
「わかった」
店を出たナナミはその足でモンシアを出て、一人で町近くの森へとやって来た。と言っても町が見えるほどの近くであり、森の奥まで踏み入るわけでもない。モンスターなどに遭遇することはほぼ無い場所だ。
何をしに来たかといえば適当な木を的にして覚えたばかりの魔法を試し打ちするためだ。
ナナミは適当な木の前に立つと、いつもの小さな杖を構えて口の中で囁くように呪文を唱える。
仙治にもかろうじて聞こえる程度の声量で、言語としては意味のない音の羅列だ。ゲームでは呪文などは表現されておらず、仙治にもその意味はまったくわからない。
いつもの氷の礫を飛ばす魔法、投氷に比べて詠唱は少し長く、十秒ほどを要した。
「……フッ!」
呪文が終わり、杖の周囲に小さな氷の粒を含んだ風が巻き起こる。杖を投げつけるように勢いよく杖を振ると、氷を含んだ風が広がりながら、的にされた木にぶつかって行った。
木にぶつかった風は一瞬その場で揉むように渦巻き、氷をまき散らしながら炸裂した。
四方へと風の余波が飛び散る。
風はすぐに収まったが、木は表面がすっかり凍り付き、その周囲の地面まで氷と霜に覆われていた。
「いつもの投氷よりも、広範囲を一気に凍らせる魔法か」
「その分魔力の消耗が大きいし、連発も出来ない」
投氷は一度呪文を唱えると、魔力を維持している限りそのまま氷を連発することが出来たが、氷風は一発撃つだけで杖から魔法が失われていた。続けて撃つためには、それだけ大きな魔力を杖に込め続けなければならないということだった。
「次、センジは少しここにいて」
「お? なんだ?」
胸当てである仙治を外して適当な木の根元に置くと、ナナミは彼から離れ三メートル程度距離を取った。
そしてまた杖を構えて呪文を唱える。
だが、今度は杖から氷などは出ず、淡く光を放っただけだ。
ナナミは両手を口元の左右に添える、メガホンの形をとって、大きく口を開くと、
「――」
「……なんだ?」
ナナミはパクパクと口を動かして、何かを叫ぶような動作をしているものの、仙治には何も聞こえてこない。
ナナミが杖を振って魔法を散らし、今度は普通に口を開くと、
「どうだった?」
今度は普通に声が聞こえる。
「どうって……どういうこと?」
「今のは消音の魔法。私の声、聞こえていた?」
「ああ、そういうことか……いや、まったく聞こえなかった」
ナナミが試したいと言っていた幻惑魔法がその消音の魔法だった。
幻惑魔法が扱える感覚は視覚だけではなく、音や声を聞く聴覚にも当然有効だ。人間は日常生活の大部分を目を頼る生き物で、まずは視覚から操った方が効果が高いように考えやすいが、人間以外の動物やモンスターには耳や鼻のほうが良いようなものも多い。
モンスターと戦うことの多い冒険者にとっては、視覚以外の感覚を誤魔化す魔法も同じくらいに有用と言えた。
「ところで、さっきなんて言ってたんだ? 途中でセンジって言ってたっぽいのはわかったんだが」
「ッ!? 本当は聞こえて……!?」
「いや、聞こえてはいなかったんだが、口の動きを見てたらそうかなと」
少し上気した顔でほっと溜息を吐いたナナミは、仙治をじっと見下ろしながら、
「……センジの」
「うん?」
「センジの馬鹿、スケベ、おっぱい好きの節操無しと言った」
「た、確かに否定は出来ないがそこまで言うこと無いだろ!?」
「……今日、ギルドで巨乳のエルフの受付嬢と話してた時」
「え、受付嬢?」
とっさに聞き返した仙治だったが、はっきりと覚えていた。
彼がこの世界に来てからエルフという種族に会ったのは初めてだったというのもあるが、あんな美人でおまけにスタイルが良いとなれば気になるのも当然、と言い切れる自信があった。
だが、そんな仙治に対してナナミは半眼で見下ろしながら告げる。
「触手がずっと動いてた」
「マジで?」
「……節操無し」
「そ、それは仕方ないんだ! 生理現象のようなものというか……モックだってめっちゃ見てただろ?」
「モックは年上好きだし異種族好き。本人は隠してるみたいだけど、私たちはみんな気付いてる」
「そ、そうなのか……」
(幼馴染って怖いな……お互い秘密にしてるつもりで、バレバレの事実がたくさんありそうだぞ)
あまり藪蛇になるのも怖くなった仙治は早々に話題を逸らしにかかった。
「ところで貰った魔法も試してみないか?」
ナナミはこくりと頷くと、杖を構えて呪文を唱える。
だが、呪文を唱え終わって杖にほのかな光が灯っても、それ以上の変化が起こらない。
「……やっぱり使えなかったのか?」
「魔法自体は成立している。ギフトを持ってない魔法を強引に使おうとしているから……だと思う」
「そうか、確かにガルダーの魔力はギフトで貰ったけど、その対応する魔法のギフトがあるわけじゃないもんな」
しばらく杖を構えて振ったり、念じたり、と試していたナナミだが、上手く行く兆候は見られない。
「……光る水を作り出すイメージが湧かなくて、上手く発現できない」
「イメージの問題なのか?」
「おそらく」
「うーん、まずは水を出すイメージだけ思い浮かべてみたらどうだ?」
仙治の言葉に従い再び試行錯誤するものの、すぐに溜息を吐く。
「――人間は水を出せる生き物ではない」
「それ言ったら氷も火も全部出せないんだが……水だったらほら、涙とか汗とかで出せるだろ? そういうイメージじゃダメなのか?」
「……それくらい微量なものから想像を膨らませるのはちょっと難しい」
「微量じゃなきゃいいなら、たとえばおしっことか……」
「おし……ぁっ」
「あ、おい、ナナミ? どうしたんだ?」
ナナミは不意にびくりと身体を震わせたかと思うと、仙治を置いたまま足早に森の中に入って行ってしまった。
そして下草の茂みに入るとそこにしゃがみ込む。
仙治からは見えない場所にナナミが隠れると、一拍後、水音が聞こえてきた。
そして、彼女が隠れているあたりの周囲がぼんやりと明るく光り始める。
「まさか……」
水音が収まり、戻って来たナナミは涙を貯めた目で仙治を睨んだ。
「……おっぱい好きなだけかと思ったら、ここまで変態だったとは」
「ま、待った! 確かに今のは俺が悪かった! でも、そうなるとは思わなかったんだよ!?」
その夜、ナナミに<水魔法Ⅰ>を付与することになった。ガルダーの魔法と直接の関係があるわけではないが、水に関係する魔法のギフトということで、助けになるかもしれない、という考えからだ。
また、付与の際の触手責めでは、宿の壁はやはり薄く他の部屋に声が漏れかねない状況だったのだが、消音の魔法を使うことでそれを防ぐことが出来た。
(そのために消音を覚えたのか……)