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第二話


「前方に艦影!・・・間違いありません!日本ヤパナの「妙高」型巡洋艦です!」


「予定通りだな」


 見張りからの報告に、リンデマンは腕時計を見た。そして予定の時間きっかしに日本海軍が合流したことを確認する。


「日本艦隊より入電。こちら大日本帝国海軍第五艦隊旗艦「足柄」。貴艦隊を歓迎す!」


「歓迎感謝すと返信。それと、燃料補給を急がれたしと付け加えろ」


 とリンデマンは言ったが、実際の所後半部の方が本音であった。


「最初はどうなることかと思ったが、何とかなったな」


 ここまでの苦労を思い出しつつ、リンデマンは無事に指揮下の艦艇を太平洋へと回航させることに成功し、安堵の息を吐いた。


 ライン演習作戦帰還後、「ビスマルク」はキール軍港で修理に入ったが、その直後の6月に独ソ戦が勃発、さらには12月には日本が米英などに宣戦布告したのに伴い、ドイツも対米宣戦布告。戦争は世界大戦へと発展した。


「ビスマルク」はキールにおける損傷の修理が完了すると、比較的安全な北海沿岸部に向かい、姉妹艦の「テルピッツ」、そしてようやく工事が完了して乗員の習熟に入った「グラーフ・ツェッペリン」とともに、睨みを利かせた。


 この効果は抜群であった。英国艦隊はこのドイツ艦隊に対応するために、地中海へアジア方面への戦力抽出を躊躇うようになった。


 しかも、その中でなんとか絞り出した「キング・ジョージ・5世」と巡洋戦艦「レパルス」が対日戦開始直後に、あろうことか日本軍の基地航空隊の攻撃によって撃沈されるという失態を演じていた。


 このため、英国でチャーチル内閣に責任を問う声に発展。同内閣は議会において新鋭戦艦4隻を建造して対抗すると宣言して、国民の不満を逸らしたが、これを聞いて喜んだのは逆にドイツ海軍であった。特に潜水艦隊司令官の「デーニッツ」はほくそ笑んだ。


「戦艦4隻の建造を進めるということは、その分の護衛艦や軽快艦艇の建造に支障を来たすということだ!」


 事実、この戦艦建造計画によってイギリスの対Uボート用護衛艦の建造計画が打撃を被ったのであった。


 一方で、日本の参戦と対米開戦はドイツにも大きな影響をもたらした。とりわけ、ドイツ海軍水上艦艇の使い道をどうするかが大きな課題となった。


 日本の参戦により戦艦が航空機によって撃沈できうることと、空母の有用性が証明されたことで、ドイツ海軍としても自海軍の水上艦艇の運用に再考を求められた。


 アメリカが参戦したことで、英海軍ロイヤルネイビーに加えて合衆国大西洋艦隊も敵として加わり、それらを相手とするには、数で劣り空母も現状1隻しかないドイツ海軍では荷が重すぎる。


 そうなると、海象などの条件から空母の有用性が減殺される北大西洋で、敵艦隊の動きを拘束しつつ援ソ船団を待ち伏せするのがベストとなる。


 だがこれだけなら、現状戦艦、巡洋戦艦、装甲艦全てに数の余裕がありすぎ、勿体ない。出来ればこの内の半分程度は別の戦域、特に現状全く手が出せていない南大西洋やインド洋で運用できればベストである。通商破壊戦は様々な海域で神出鬼没に実施するのが効果的なのだ。


 しかし、そのためには米英海軍の警戒網を掻い潜って大西洋を南下するという大問題があった。10年前ならともかく、航空機と電子兵器の能力が向上した現在、それは危険すぎた。


 ところが、これに関してトンデモナイ案が持ち上がった。切欠はソ連海軍捕虜の証言とスパイによって得られた情報であった。


 ソ連海軍はその広大な領土に応じる形で艦隊を置いていた。バルト海を守るバルチック艦隊。ムルマンスクなどの北洋方面を守る北洋艦隊。そして、ヨーロッパから見て遥かかなたの極東を守る太平洋艦隊だ。


 この内バルチック艦隊と北洋艦隊は、独ソ開戦によって枢軸国と交戦状態に入り、バルチック艦隊はバルト海をドイツ海軍に封じられ、短時間で艦隊としての戦力も存在意義もほぼ喪ってしまった。


 また北洋艦隊は援ソルート防衛と言う重要な役割を与えられたものの、戦力は微々たるものであった。


 そして極東の太平洋艦隊は、巡洋艦や駆逐艦を擁するものの、ドイツと同盟を結ぶ日本とは中立条約を結んでおり、現状戦う相手がなかった。


 そこでソ連海軍は、夏の氷が薄くなる時期を狙って、砕氷艦の支援の下で太平洋艦隊所属艦艇を北洋艦隊に北極海経由で回航するという前代未聞の手段を採った。常識的に考えれば、ソ連も連合軍であるのだから、パナマ運河かスエズ運河経由で回航するものである。


 しかしソ連軍は、より距離が短いルートを多少の危険を冒してでも選択したのであった。


 そしてこれに、ドイツ海軍上層部やヒトラー総統自身が食いついた。ロシア人に出来て我々ドイツ人に出来ないことはないと。 


 幸か不幸か、砕氷艦はドイツ海軍も保有しているし、必要ならば民間船の徴発や侵攻した北欧やソ連などの国から鹵獲した艦だってある。それらを利用し、万難を排して夏の北極海を渡り、太平洋へと向かう。そして盟邦である日本の勢力圏下へと入り込む。


 日本の勢力圏に入ってしまえば、狩場はいくらでもある。特にシンガポールやUボートも進出したペナンを中心とすれば、インド洋方面で英国の通商路や援ソルート、アフリカ戦線への補給ルートを叩きつぶすことができる。


 この前代未聞の作戦に、ライン演習作戦での傷が癒えた「ビスマルク」、竣工し乗員の習熟も進んだ「グラーフ・ツェッペリン」、そして装甲艦「アドミラル・シェーア」を中心とする艦隊が投入されることとなった。そしてその指揮官に任命されたのが、少将へと昇進したリンデマンであった。


 ドイツ海軍上層部の戦略としては、この大平洋への派遣艦隊と対をなす「テルピッツ」「ペーター・シュトラッサー」を中心とする艦隊を大西洋に残し、二つの海域に存在する艦隊で英艦隊を圧迫、その戦力を分散させるというものであった。


 艦の数としては大したことはない。戦艦も空母も装甲艦も一桁の数しかないのだ。しかし、それで十分である。実際大西洋ではこのわずか数隻の独海軍水上艦に、英海軍の本国艦隊や米大西洋艦隊は過敏といえるほどに、その動静に注視していたのだから。


 こうして独太平洋艦隊が編成され、はるばる北極海経由で大西洋から太平洋へと回航された。時に1942年8月のことである。


 その航行にあたっては困難が予想されたが、最終的に砕氷艦(厳密には鹵獲した耐氷構造の貨物船改造艦)3隻を喪ったものの、戦艦、空母、装甲艦、軽巡各1隻に、駆逐艦2隻、補給艦4隻からなる艦隊は無事に太平洋へと到達した。


 補給艦が多いのは、東洋艦隊のみならずインド洋方面のUボート部隊や仮装巡洋艦への補給物資を輸送したためであった。


 出迎えの大日本帝国海軍第五艦隊と合流した東洋艦隊は、一路南下して千島列島の択捉島単冠湾に入港。ここで仮泊して補給した後、横須賀へと南下した。


「日本は一流海軍国と聞いていたが、まさにそのとおりだな。我が「ビスマルク」でもあの戦艦には勝てまい」


 横須賀に到着したリンデマンら独艦隊を出迎えたのは、巨大な三連装砲塔を3基搭載した日本の最新鋭戦艦「武蔵」であった。


「主砲は40cmどころか46cmはありそうだ。あれだけの艦艇の存在を察知できないとは・・・」


 日本に来る前、リンデマンらは日本海軍の現有戦力について説明を受けた。その際に現在の日本海軍の戦艦で最強の艦は40cm砲搭載の「長門」型と聞いていた。他に4万5千トン程度の新鋭艦も建造中と説明されたが、せいぜい「長門」型の拡大強化型、「ビスマルク」と同程度の艦と考えていた。


 しかし目の前の艦は明らかに「長門」や「ビスマルク」より強力そうであった。ただしレーダーアンテナ等はほとんど見当たらないので、電子兵装は劣っているようではあったが。


 それでも戦艦としての実力は、向こうが確実に上であろう。


「あの艦とは戦いたくないな。味方として行動するなら頼もしいかもしれんがね」


 リンデマンはこの時、独太平洋艦隊は通商破壊に専念するので、「大和」型と共に戦う等想像すらできなかった。


 横須賀に入港すると、「ビスマルク」以下の艦艇は順番にドック入りして整備と補修を行った。日本と言う異国のため、出来る範囲は限られていたが、北極海を長期間航行して受けたダメージの修復を少しでも行わなければならなかった。


 その間乗組員たちは日本政府の案内により、交代で箱根や熱海、日光と言った保養地での休養や観光を、短時間とは言え楽しんだ。


 一方リンデマンら艦隊幹部たちは天皇への拝謁を始め、日本政府や海軍によって行われたパーティーへの参加や、横須賀をはじめとする軍事施設の見学、さらには自国も含む駐日大使らとの懇談など、休む暇がなかった。


 ちなみにこの際、日本海軍からインド洋での通商破壊ではなく、この時期始まっていたソロモン方面への進出を打診されたが、リンデマンらはもちろん本国からの命令を理由に拒否している。


 そうして慌ただしい外交行事をこなした後、独太平洋艦隊は横浜で修理を終えた仮装巡洋艦や補給艦を編入して、横須賀軍港を日本海軍の護衛の下で出港し、呉、佐世保と言った軍港を表敬訪問した。


 そして短い日本本土滞在(独太平洋艦隊の艦の大半は、この後日本本土に二度と来航することはなかった)を終えると、そのまま南下して上海、台湾、香港、フィリピン、仏印などを経由してシンガポールに入港した。


 時に1942年10月のことであった。

 

 


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