「 6月30日(金) 」
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
――著作権も何もあったもんじゃない。時効なのだけど。
もし自分が日記を始めるなら最初はこうする、と決めていた。
中学生の頃だろうか。周りが急に”日記”をつけ始めたのは。昔読んだ『倫理・政治経済』の教科書に、「内省的傾向が深まる思春期においては、一般に行動の例として…(中略)…日記を書き始めるなどがある」と書いてあった。
そして思春期を終わっていたのか始まってすらいなかったのか分からない俺は、日記を3日でやめた。
ずぼらで面倒くさがりな性格であることは重々承知しているのだけど。どうも、紙という余白に自分の生の体験を固定化してしまうのは…何だか過去を編集している気分になる。
思い出はモノと同じで、時間が経つと風化して…少しづつ綻びて、ふやけて、輪郭があいまいになって、いつの間にか存在すら漠然としてしまう。
でも、その感覚が俺は嫌いじゃなかった。
だけれど、今は違う。
俺は近くの病院、郊外にたたずむ白く小綺麗な建物、を脳裏に浮かべながら、じっと手元の紙を見る。
薄いぺらぺらの診断書。よく分からない、海外の…ラテン系か?の名前──おそらく発見者の名前だろう、が複数羅列された病名。治療法は未発見。
医者は告げた。
「余命は1か月」
残された日々を必死に生きる中で、これからの1日1日の濃さは、たぶん通りの隅にある喫茶店とかで飲む、1杯800円くらいのエスプレッソ並みになるのだろう。鮮やかな色、鼻の奥へすっと届くコーヒーの香り、のどをつっと貫く苦みと酸味。カップを置くと同時に目の前の景色が、少しだけクリアになる。
気が付くとコーヒーはなくなっていて、店からふわりと通りに投げ出された俺は、ふらふらと街中を見渡す。そんなのも楽しいのだけれど、ふらふらしているうちに時間はあっという間に過ぎ、たぶん俺はもう――。
どこで、どんな色で、どんな香りで、どんな味のコーヒーを、どんな風に飲んだのか、俺は一字たりとも残さず書いておきたい。
もう一回追体験できるように。
きっと明日も、またその明日も、濃いコーヒーをぐっと飲み続けられるように。
残された日々をいかに悔いがなく充実した日々にするか。
まず、記念すべき日記第1日目の今日は、「人生でやり残したこと」リストを作った。
意外に書いてみると大きなものから小さなものまでたくさんあって、あっという間に50を超えてしまった。人間の欲深さを実感し、リストを丸めてゴミ箱に投げる。紙玉はゴミ箱の角に当たって、見当違いの方向に跳ね返る。捨てる神あれば拾う神ありというが、捨て損ねたものは果たして拾われるのだろうか…なんて益体もないことを考えながら、俺は紙をもう1枚取り出す。
「本当にやりたいこと」
ペンが、一瞬の逡巡を待って、ゆっくりと動きだす。
そこの書かれたのは、たったの1行だった。
2個目はない。思いつかない。ペンが動かない。
「これさえ達成すればもう死んでいいのかな?」と俺は少し自嘲気味に笑いながら自問自答する。沈黙の肯定。
ゆっくり15秒かけてたった1つの目標を再確認した俺は、また紙をくしゃっと丸めて、今度はより念入りに――ソフトボールくらいの大きさの球体にして、手首のスナップを効かせながら低い弾道でゴミ箱に投げる。今度こそまっすぐゴミ箱の口に吸いこまれた紙玉は、派手な音をだしながらすっぽりと収まる。
「よし、」
声を出す。
時計が鳴る。2つの針が重なる。カレンダーが1枚めくれる。
勝負の7月だった。たぶん俺に8月はない。
たった一つの目標、それを達成するためだけに。
少し時期が早すぎるかもしれない。でも、もう夏だ。
ぜんぶ夏のせいだ。きっと冬ならば、きっと別の目標になっていたのだろうけれど。
「 で、 ること。」