第三章:決め打ちの功罪
前章でも少し触れたように、人狼というゲームには、「決め打ち」という戦術がある。
能力者の真贋、あるいは灰の参加者の白を、客観的な証拠のない状態で確定とし、以降はそれを前提として進める戦術である。
この「決め打ち」には、幾つかのメリットがある。
たとえば能力者の決め打ちであれば、早い段階から情報源を一本に絞ることで考察精度が上がる。
また、偽(と決め打った)能力者の判定を元にした処刑を行わないことで、手数を節約できる。
ローラーも実施しないため、その分の手数も浮いて、有利になるという面もある。
灰の白決め打ちについても基本的には同様で、考察精度の向上が主たる利点になるだろう。
人狼というゲームをプレイする人々のあいだで、長く、この決め打ちという手法は愛され続けてきた。
この傾向は、ある意味では当然だといえる。
推理と考察のゲームであるからには、村側の中心軸となる占-霊の真贋を見抜くのが勝利への最短ルートである。
それを否定する気は、霊ロラ教の教祖である私にさえない。
確かに、占-霊の真贋を正しく見抜くことが出来るのならば、それは基本的には勝利への近道といって間違いないだろう。
――だが、その近道が絶対に正しい道だろうか?
意気揚々と進んだ道の先が、断崖絶壁であるかもしれないのだ――そしてそれを知ったときには、もう引き返すことは出来ない。
たとえ占-霊の真贋を正しく諒解し、それを前提に進行したとしても、勝利は絶対ではない。
真占が最終日まで生残していても狼の力量次第では勝利は可能であるし、そも、多くの場合、それほど遅くまで占が生残することは稀である。
いみじくも勝利を目指す人狼陣営であるならば、真占が真として決め打たれたならば、即座に狩人狙いの襲撃を行い、翌日には真占い師を処分するだろうことは疑いないからだ。
狩人殺害に自信がなければもう1手の灰襲撃を挟むかもしれないが、だとしても人狼側にとっての致命傷ではない。
よしんば襲撃先を護衛される最悪が生じても、偽狩人COをして仲間ひとりを犠牲にして真を潰す手段がある。
このように、決め打ちというのは、それが正しい道であってさえ、100%の勝利が得られるわけではない。
性質が悪いのは、決め打ちが間違っていた場合、ほぼ確実な敗北が待っている――ということだ。
つまるところ、単純化した図式でいえば、決め打ちの勝率は以下になる。
・決め打ち正答率50% × 決め打ち正答後の勝率N%
ここでNが100%でない以上、決め打ちという戦術の客観的な勝率は最大でも50%ということになる。
まして、これは決め打ちが勝利に比較的直結する占い師決め打ちの場合の値になる。
霊能者を決め打ちする場合にどうなるかは、後の章で述べるが、さしたる役割を果たさない。
占い師と霊能者のラインとなれば、更に決め打ちの正答率は下がることになる。
正答であっても100%勝利できるわけでなく、誤っていれば100%敗北。
分の悪い賭けだと、断言しよう。それが、長く人々に愛されてきた「決め打ち」の本質だと。
それでも、「決め打ち」という言葉は人々を魅了して止まない。
なんとなれば、人狼というゲームは推理と考察のゲームであるという認識が大勢である現状、推理と考察で勝利を手繰り寄せる「決め打ち」という選択は、極めて魅力的であるからだ。
現実には、人狼というゲームは推理と考察よりも説得や誘導が重要になってくるのだが、それを理解しているベテラン勢でさえも「決め打ち」の魅力には逆らい難い。
むしろ、リスクを理解して尚、だからこそ正しく決め打って勝利するのだと考えるベテラン勢も多いというのが実情である。
確かに、それは一種の美学であろう。
だが、この美学は、騎士道のようなものだ。実戦では何の役にも立たないお題目、それである。
むしろ、人狼側に付け入る隙を与えるという意味では、騎士道にさえ劣るかもしれない。
ある程度の経験を積んだプレイヤーであれば、こういった言動に遭遇したことはないだろうか?
手順どおりにやれば詰んでいて100%勝利できる状況で、「早く終わらせたいから、○○に投票する」などという主張である。
これは基本的には人狼側の悪足掻きである場合が多いのだが、こういった悪足掻きが時として通用してしまうことそれ自体が、決め打ちという戦術がある種の麻薬性を持つことの証明となるだろう。
どのような理由があろうと、100%の勝利を放棄することの一体どこに論理があるだろうか。それは、ただの利敵行為である。
(いや、無論、我々が現実に人狼騒動に遭遇したのならば、犠牲者を最小にすることに意味はあるだろうが)
このような極端なケースでなくとも、手順を守らないことで勝率が大きく落ちるケースというのは数多い。
そういったケースで敗北する村の大半は、こういった決め打ち思想を抱く村人とそれを後押しする人狼との麗しき共同作業によって手順を無視し、その報酬として必然の敗北を与えられているのである。
これは決め打ち派の人間でも認めるものと思うが、事実として、手順論としてのローラーが有効な場面は多々ある。
そういったケースでさえローラーの有効性から目を背け、感情的にローラーを否定する決め打ち論者を世に送ったことこそ、「決め打ち」という戦術の消しがたい罪悪なのである。