世界はうつくしい
さわさわと風に揺れる植物の音を聴きながら、ただただ呆然とする。
目の前の光景が、体が感じる風や音が、容易に受け入れられない。
頭の中に情報として入って来ない。
階段から落ちたのは、つい数分前のことだったはずだ。
脚を滑らせ、階段から堕ちると理解した次の瞬間、襲ってきた恐怖心と浮遊感に咄嗟に目を瞑った。
来る衝撃に身を強張らせること数分後。
いつまで経っても痛みが来ないことに気づくと、漸く目を見開いて、次の瞬間には瞠目する羽目になったのだった。
「…はぁあ?いやっ…えー…?」
暫しの間、呆然としすぎたせいか、無意味な言葉が転げ落ちた。
あまりの開放感と理解不能な事態に、頭が思考することを放棄したらしい。
口から出てゆくのは意味を持たない言葉ばかりだ。
草原?青い空?爽やかな風?
わーい清々しいっていや待て落ち着け私。
もしかして階段から落っこちて、実は今頭打って失神中なのかもしれない。
むしろ私生きてるのか?
まさか死んだなんてことはないよね?
ここは三途の川には見えないし、天国にも見えない。
夢なんだよね?そうだよね?
…誰か答えろこのやろう。
「…はははー…気持いーなー…」
黙っていることが身に堪え、無意味に呟く。
現状を認識できませんとばかりに、頭が混乱し続ける。
アキは今、蒼い草原に1人立ち尽くしていた。
見渡す限りの緑と爽快なまでに晴れた空。
吹く風は心地よく、通常であれば喜んで日向ぼっこを開始したいところだ。
そんな大草原のど真ん中にぽつんと点を穿つかのごとく、アキはただそこにいた。
何故なのかは皆目検討もつかない。
学校に居て、ちょうど部活が終わって、自宅へ帰ろうとしていただけだ。
己の身体能力の低さを意識せず、うっかり階段から足を滑らせてしまったけれど。
それでも、それだけでも、アキがこんなところに居る理由にはならないはずだ。
なってもらっちゃ困る。
「えーとぉ…だれ…も、居ませんね…?」
そーですよねー…へへ。
乾いた喉を無理矢理動かし、呟く。
無意味に乾いた笑いが零れた。
見渡しても、草原と空しか目に映らない。
つまり、ここにアキ以外に人がいない。
「……ははっ…。なんだそれ」
なんとも言えず小さく笑ったあと、ため息を吐いて黙り込み、その場に座り込んだ。
何度瞬きをしても、景色は変わってくれない。
目を思い切り瞑って数秒待ち、また開けてみても状況に変化がない。
頬を力の限り抓り、涙目になった後も、周りの景色が変わることはなかった。
ただ頬が真っ赤になって、感じた痛みにこれは本当に夢ではないのかもしれないという思いが強くなっただけだ。
何がどうしたらこうなるんだろう。
ここはどこで、私は一体どうなったの。
アキの頭はパニックに襲われていて、思考もままならないことが、何故か酷く悲しかった。
「…あ…?」
どれくらいそのままでいたのだろう、顔を上げたままだったアキの視線上に、黒い点が現れる。
青い空と碧い草原の地平線上に穿つ黒点は、どうやら動いているようだった。
何だろう、あれ。
上手く動いてくれない頭で考える。
結構早いその黒点の動きを見つけて、それがどうやらこちらへ近づいてきているらしいことに気づく。
しばらく後、ざっざっざ、と草を掻き分ける音が僅かに聞こえてきたあたりで、ぼんやり眺めているだけだったアキの目が瞬いた。
あれがどうやら人型らしいということに気づいて、縋るような思いと歓喜に体が震える。
しかし次の瞬間に、さぁっと一気に血の気が下がった。
もし、あれが『良い』人でなかったら?
アキを見つけ、害するような人種だったら、どうする?
もしくは、思いたくはないが、人ではなかったら?
思うことすら馬鹿らしいけれど、そんな可能性も捨てきれないような気がしてしまう。
あんなにスムーズに二足歩行をする獣など、笑い話にもならないけれど。
そもそも、アキが無事で済む保障など、どこにもないのだ。
「ううぅ…」
アキは湧き出る希望と恐怖に戸惑い、逃げることも出来ずにその場に留まった。
顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。
未知の場所と未知の生き物には、やはりまずは恐怖を抱くものだろう。
それでも現状解決の糸口かもしれない存在を前に、逃げることは憚られた。
恐怖よりもそれに縋りたい気持ちが強かった為ともいえるが、ただ単に怖くなって腰が抜けただけかもしれなかった。
ただ座り込むことしかできないまま、アキはやがて現れた黒い人を見上げた。