音
その部屋に決めた理由は、家賃が安かったからだった。
駅から歩いて十二分。築三十年以上の五階建てマンション。外壁はところどころ黒ずんでいて、エントランスの集合ポストには古いチラシが何枚も差さっていた。けれど、部屋の中はリフォームされていて、床も壁紙も一応は新しかった。
奈津は地方から東京に出てきて三年目だった。職場は小さな印刷会社で、毎日ほとんど同じ作業をしている。朝八時に家を出て、夜八時ごろ帰る。帰りにスーパーで値引きの惣菜を買い、風呂に入り、スマホを眺めて寝る。
派手な生活ではない。
だからこそ、部屋に求めるものも多くなかった。
雨漏りしないこと。駅まで歩けること。洗濯機が室内に置けること。夜に眠れること。
その四つが満たされていれば、十分だった。
引っ越して最初の一週間は、特に何もなかった。
隣の生活音は少し聞こえた。上の階で椅子を引く音。廊下を歩く靴音。風呂場の換気扇が回る低い音。古い建物ならそんなものだと思った。
気になり始めたのは、二週目の水曜日だった。
夜、奈津は洗面所で歯を磨いていた。スマホで動画を流しながら、片手で髪を結び直していた。洗面台の蛍光灯は少し暗く、鏡の端には前の住人が貼ったらしい小さなシールの跡が残っていた。
口をゆすぎ、コップを置いた時だった。
とん。
小さな音がした。
木を指先で軽く叩いたような音だった。
奈津は顔を上げた。
音は洗面所の壁の向こうから聞こえた気がした。隣の部屋かもしれない。もしくは配管かもしれない。マンションでは、水を止めた後に壁の中で音が鳴ることがある。
奈津はあまり気にしなかった。
電気を消して、部屋に戻った。
次の日も、同じ音がした。
今度はキッチンだった。
奈津が弁当箱を洗い、シンクの水を止めた直後。
とん。
昨日と同じ音だった。
何かが返事をしたみたいだと思った。
そう思ってしまったことが、よくなかったのかもしれない。
それから、奈津はその音を待つようになった。
待っていると、聞こえない。
忘れていると、鳴る。
電子レンジの扉を閉めた後。
玄関の鍵をかけた後。
洗濯機の蓋を閉じた後。
とん。
いつも一回だけ。
強くもなく、弱くもない。誰かが「はい」と合図するみたいに、短く鳴る。
最初は隣人だと思っていた。
隣の部屋には、中年の男性が住んでいるらしかった。朝に新聞を取り出す姿を一度だけ見たことがある。痩せた人で、灰色のスウェットを着ていた。挨拶をしたら、小さく会釈だけ返された。
その人が壁を叩いているのかもしれない。
夜中の生活音がうるさいのだろうか。
奈津は気をつけるようにした。食器をそっと置く。ドアを静かに閉める。テレビの音量を下げる。夜十時以降は洗濯機を回さない。
それでも、音は鳴った。
とん。
ある夜、奈津は試しに何もせず、部屋の中央に立ってみた。
十一時四十分だった。
部屋の電気はつけたままにしていた。窓の外では、遠くの道路を車が走っている。冷蔵庫が低く唸っていた。洗濯物の柔軟剤の匂いと、流しの排水口の湿った匂いが混ざっている。
奈津は息を止めるようにして、待った。
一分。
二分。
三分。
音はしない。
やっぱり気のせいかもしれない。
そう思って、奈津は小さく息を吐いた。
その直後だった。
とん。
今度は、床の下から聞こえた。
奈津は動けなかった。
部屋は三階だった。床の下には、下の階の天井があるだけだ。それなのに、その音は床板のすぐ裏側で鳴ったように感じた。
奈津はその夜、スマホで録音を始めた。
証拠を残そうと思ったわけではない。ただ、自分の聞き間違いなのか確かめたかった。
録音アプリを起動し、スマホをテーブルに置く。いつも通りに過ごす。食器を片付け、シャワーを浴び、髪を乾かし、布団に入る。
朝になって再生すると、そこには普通の生活音しか入っていなかった。
水音。
ドライヤー。
奈津の咳払い。
布団が擦れる音。
問題の音は、入っていなかった。
録音していない時には鳴るのに、録音すると鳴らない。
そういう話を、奈津はどこかで読んだことがあった。怪談投稿サイトだったと思う。カメラを向けると映らない。録音すると入らない。確認しようとした瞬間だけ、何も起こらなくなる。
ありがちな話だと思っていた。
けれど、自分の部屋でそれが起きると、ありがちだから怖くない、とはならなかった。
数日後、奈津は管理会社に電話した。
隣の部屋から夜中に壁を叩くような音がすると伝えた。電話口の女性は、慣れた声で「建物の構造上、音が響くことがあります」と言った。念のため注意文を掲示しておきます、という話になった。
翌日、エレベーター横の掲示板に紙が貼られていた。
深夜帯の生活音にご注意ください。
それを見て、奈津は少し安心した。
誰かに言ったことで、音がただの生活音に戻ったような気がした。
その夜、音は鳴らなかった。
次の日も鳴らなかった。
三日目の夜、奈津は久しぶりによく眠れた。
そして四日目の朝、集合ポストに封筒が入っていた。
白い封筒だった。
宛名は書かれていない。切手もない。手で直接入れられたものだった。
奈津は部屋に戻ってから封を開けた。
中には、薄い紙が一枚だけ入っていた。
そこには、青いボールペンで短く書かれていた。
「返事をしないでください」
奈津はしばらくその文字を見ていた。
意味が分からなかった。
誰からなのかも分からない。
返事。
その言葉を見た時、奈津はあの音を思い出した。
とん。
自分が何かをした後に鳴る音。
あれは、返事だったのだろうか。
奈津は急に気持ちが悪くなり、封筒ごと紙をゴミ箱に捨てた。
その日、奈津は会社でもずっと落ち着かなかった。コピー機の作動音、電話の着信音、誰かが机を指で叩く音。その全部が、あの音に似て聞こえた。
帰り道、駅前のドラッグストアで耳栓を買った。
ついでに、消臭スプレーとカップスープも買った。部屋の匂いを少し変えたかった。あの部屋に戻ること自体が、もう少し嫌になっていた。
マンションに着くと、集合ポストの前に隣の男性が立っていた。
灰色のスウェット。痩せた背中。新聞を抜き取る手。
奈津は思い切って声をかけた。
「あの、すみません」
男性はゆっくり振り向いた。
「最近、夜に音、しませんか」
男性はしばらく奈津を見ていた。
その目が、ひどく疲れているように見えた。
「聞こえますか」
低い声だった。
奈津は少し戸惑った。
「はい。壁とか、床とか。小さく叩くみたいな」
男性は新聞を折りたたんだ。
そして、周囲を見回すようにしてから言った。
「返さない方がいいです」
奈津は何も言えなかった。
男性は続けた。
「音がした後に、壁を叩いたり、床を踏んだり、咳払いしたり、そういうのをしない方がいいです」
「どういうことですか」
「分かりません。ただ、前の人もそう言ってました」
前の人。
奈津はその言葉を聞き返そうとした。
けれど、男性はもう話を終えたように、エレベーターの方へ歩いていった。
その夜、奈津はできるだけ音を立てないように過ごした。
ドアを閉める時は、最後まで手を添えた。食器は洗わず、流しに置いたままにした。テレビもつけなかった。スマホはマナーモードにした。
部屋は静かだった。
静かすぎて、冷蔵庫の音がやけに大きい。
十一時を過ぎた頃、奈津は布団に入った。電気は消さなかった。耳栓も使わなかった。聞こえない方が怖い気がした。
しばらく何も起きなかった。
奈津は目を閉じた。
眠りかけた時だった。
とん。
壁から聞こえた。
奈津は目を開けた。
息を止める。
何もしない。
返事をしない。
とん。
今度は床。
奈津は布団の中で、指先を握りしめた。
とん。
玄関。
とん。
天井。
とん。
洗面所。
音は一つずつ場所を変えていった。
奈津は動かなかった。
音が鳴るたびに、そこに何かがいるというより、部屋の形を確かめられているような感じがした。壁、床、天井、玄関、洗面所。ここに住んでいるものの輪郭を、外側から叩いて探っている。
やがて音は止まった。
奈津はそのまま朝まで眠れなかった。
翌日、奈津は会社を休んだ。
管理会社に電話し、前の入居者について聞いた。もちろん、詳しいことは教えてもらえなかった。ただ、担当者は少し困ったように、「短期間で退去されていますね」とだけ言った。
理由は分からないという。
奈津はネットでマンション名を検索した。
事故物件サイトには載っていなかった。
掲示板にも特に何もない。
けれど、古い地域掲示板の過去ログに、似た住所の書き込みが一つだけ残っていた。
「夜に壁を叩く音がする部屋について知ってる人いますか」
投稿は十年以上前のものだった。
返信は三つしかなかった。
ひとつ目は、ただの配管では、というもの。
ふたつ目は、管理会社に相談しろ、というもの。
三つ目には、短くこう書かれていた。
「それ、音じゃなくて確認ですよ」
奈津は画面を閉じた。
それ以上は見たくなかった。
夕方、奈津は近くのビジネスホテルを予約した。数日だけでも部屋を離れようと思った。荷物をまとめる間、部屋の中は妙に静かだった。
下着と着替え、充電器、財布、化粧ポーチ。
必要なものをバッグに詰めて、最後にスマホを取ろうとした。
その時、スマホの録音アプリが開いていることに気づいた。
録音中だった。
奈津は自分で起動した覚えがなかった。
画面には、録音時間が表示されていた。
十一時間三十二分。
朝からずっと録音されていたことになる。
奈津は止めようとした。
けれど、指が止まった。
聞いてはいけない。
そう思った。
でも、聞かなければならないとも思った。
奈津は再生ボタンを押した。
最初は何もなかった。
朝の部屋の音。遠くの車。冷蔵庫。奈津が布団から起きる音。洗面所の水音。
そして、奈津が管理会社に電話している声が入っていた。
自分の声を録音で聞くのは、いつも少し気持ち悪い。実際より低く、他人の声みたいに聞こえる。
再生は進んでいく。
昼の静かな部屋。
奈津がパソコンを開く音。
ネット検索のキーボード音。
過去ログを見つけた頃だろうか。
その時、録音の中で、音がした。
とん。
奈津はスマホを握ったまま固まった。
録音の中の奈津は、その時、部屋にいた。
確かにいた。
でも、音がした後、録音の中で奈津の声が聞こえた。
「はい」
奈津は息が止まりそうになった。
言っていない。
少なくとも、覚えていない。
録音の中では、その後にまた音がした。
とん。
少し間があって、また奈津の声。
「はい」
音。
声。
音。
声。
それが何度も続いていた。
まるで、誰かに名前を呼ばれて返事をしているみたいだった。
奈津は再生を止めた。
部屋は静かだった。
窓の外はもう暗くなっている。カーテンの隙間から、向かいのマンションの明かりが細く入っていた。流しに置いたままの食器から、少し酸っぱい匂いがした。
奈津はバッグを掴み、部屋を出た。
玄関の鍵を閉める時、手が震えた。
鍵を回す。
かちゃり。
その直後、ドアの内側から音がした。
とん。
奈津は振り返らなかった。
エレベーターを待つ時間が長く感じた。廊下の蛍光灯は白く、床には小さな虫の死骸が落ちていた。隣の部屋のドアの下から、細い光が漏れている。
エレベーターが来た。
奈津は乗り込んだ。
扉が閉まりかけた時、隣の男性が廊下の奥に立っているのが見えた。
男性は奈津を見ていた。
そして、口を動かした。
声は聞こえなかった。
けれど、その口の形だけは分かった。
「返したんですね」
ホテルに着いてから、奈津は部屋の電気を全部つけた。
狭いシングルルームだった。ベッドと机と小さな冷蔵庫。壁紙はきれいで、浴室からは消毒液の匂いがした。エアコンの音は一定で、変な隙間もない。
奈津はようやく息を吐いた。
シャワーを浴び、コンビニで買ったおにぎりを食べた。テレビはつけなかった。スマホも見なかった。録音アプリは削除した。
日付が変わる頃、奈津はベッドに入った。
眠れそうだった。
ここなら大丈夫だと思った。
部屋が違う。
壁が違う。
床が違う。
あのマンションから離れている。
目を閉じる。
エアコンの音。
隣室の水音。
遠くでエレベーターが止まる音。
知らないホテルの、普通の夜の音。
その中に、ひとつだけ混じった。
とん。
奈津は目を開けた。
音は壁からではなかった。
床でも、天井でも、玄関でもなかった。
枕元のスマホが、暗い画面のまま震えていた。
通知は出ていない。
電源も切れている。
それでも、スマホの中から、小さく音がした。
とん。
奈津は手を伸ばさなかった。
しばらくして、スマホの黒い画面に、音声入力の文字だけが白く浮かんだ。
「はい、と聞こえました」




