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掲載日:2026/07/08

 その部屋に決めた理由は、家賃が安かったからだった。


 駅から歩いて十二分。築三十年以上の五階建てマンション。外壁はところどころ黒ずんでいて、エントランスの集合ポストには古いチラシが何枚も差さっていた。けれど、部屋の中はリフォームされていて、床も壁紙も一応は新しかった。


 奈津は地方から東京に出てきて三年目だった。職場は小さな印刷会社で、毎日ほとんど同じ作業をしている。朝八時に家を出て、夜八時ごろ帰る。帰りにスーパーで値引きの惣菜を買い、風呂に入り、スマホを眺めて寝る。


 派手な生活ではない。


 だからこそ、部屋に求めるものも多くなかった。


 雨漏りしないこと。駅まで歩けること。洗濯機が室内に置けること。夜に眠れること。


 その四つが満たされていれば、十分だった。


 引っ越して最初の一週間は、特に何もなかった。


 隣の生活音は少し聞こえた。上の階で椅子を引く音。廊下を歩く靴音。風呂場の換気扇が回る低い音。古い建物ならそんなものだと思った。


 気になり始めたのは、二週目の水曜日だった。


 夜、奈津は洗面所で歯を磨いていた。スマホで動画を流しながら、片手で髪を結び直していた。洗面台の蛍光灯は少し暗く、鏡の端には前の住人が貼ったらしい小さなシールの跡が残っていた。


 口をゆすぎ、コップを置いた時だった。


 とん。


 小さな音がした。


 木を指先で軽く叩いたような音だった。


 奈津は顔を上げた。


 音は洗面所の壁の向こうから聞こえた気がした。隣の部屋かもしれない。もしくは配管かもしれない。マンションでは、水を止めた後に壁の中で音が鳴ることがある。


 奈津はあまり気にしなかった。


 電気を消して、部屋に戻った。


 次の日も、同じ音がした。


 今度はキッチンだった。


 奈津が弁当箱を洗い、シンクの水を止めた直後。


 とん。


 昨日と同じ音だった。


 何かが返事をしたみたいだと思った。


 そう思ってしまったことが、よくなかったのかもしれない。


 それから、奈津はその音を待つようになった。


 待っていると、聞こえない。


 忘れていると、鳴る。


 電子レンジの扉を閉めた後。


 玄関の鍵をかけた後。


 洗濯機の蓋を閉じた後。


 とん。


 いつも一回だけ。


 強くもなく、弱くもない。誰かが「はい」と合図するみたいに、短く鳴る。


 最初は隣人だと思っていた。


 隣の部屋には、中年の男性が住んでいるらしかった。朝に新聞を取り出す姿を一度だけ見たことがある。痩せた人で、灰色のスウェットを着ていた。挨拶をしたら、小さく会釈だけ返された。


 その人が壁を叩いているのかもしれない。


 夜中の生活音がうるさいのだろうか。


 奈津は気をつけるようにした。食器をそっと置く。ドアを静かに閉める。テレビの音量を下げる。夜十時以降は洗濯機を回さない。


 それでも、音は鳴った。


 とん。


 ある夜、奈津は試しに何もせず、部屋の中央に立ってみた。


 十一時四十分だった。


 部屋の電気はつけたままにしていた。窓の外では、遠くの道路を車が走っている。冷蔵庫が低く唸っていた。洗濯物の柔軟剤の匂いと、流しの排水口の湿った匂いが混ざっている。


 奈津は息を止めるようにして、待った。


 一分。


 二分。


 三分。


 音はしない。


 やっぱり気のせいかもしれない。


 そう思って、奈津は小さく息を吐いた。


 その直後だった。


 とん。


 今度は、床の下から聞こえた。


 奈津は動けなかった。


 部屋は三階だった。床の下には、下の階の天井があるだけだ。それなのに、その音は床板のすぐ裏側で鳴ったように感じた。


 奈津はその夜、スマホで録音を始めた。


 証拠を残そうと思ったわけではない。ただ、自分の聞き間違いなのか確かめたかった。


 録音アプリを起動し、スマホをテーブルに置く。いつも通りに過ごす。食器を片付け、シャワーを浴び、髪を乾かし、布団に入る。


 朝になって再生すると、そこには普通の生活音しか入っていなかった。


 水音。


 ドライヤー。


 奈津の咳払い。


 布団が擦れる音。


 問題の音は、入っていなかった。


 録音していない時には鳴るのに、録音すると鳴らない。


 そういう話を、奈津はどこかで読んだことがあった。怪談投稿サイトだったと思う。カメラを向けると映らない。録音すると入らない。確認しようとした瞬間だけ、何も起こらなくなる。


 ありがちな話だと思っていた。


 けれど、自分の部屋でそれが起きると、ありがちだから怖くない、とはならなかった。


 数日後、奈津は管理会社に電話した。


 隣の部屋から夜中に壁を叩くような音がすると伝えた。電話口の女性は、慣れた声で「建物の構造上、音が響くことがあります」と言った。念のため注意文を掲示しておきます、という話になった。


 翌日、エレベーター横の掲示板に紙が貼られていた。


 深夜帯の生活音にご注意ください。


 それを見て、奈津は少し安心した。


 誰かに言ったことで、音がただの生活音に戻ったような気がした。


 その夜、音は鳴らなかった。


 次の日も鳴らなかった。


 三日目の夜、奈津は久しぶりによく眠れた。


 そして四日目の朝、集合ポストに封筒が入っていた。


 白い封筒だった。


 宛名は書かれていない。切手もない。手で直接入れられたものだった。


 奈津は部屋に戻ってから封を開けた。


 中には、薄い紙が一枚だけ入っていた。


 そこには、青いボールペンで短く書かれていた。


 「返事をしないでください」


 奈津はしばらくその文字を見ていた。


 意味が分からなかった。


 誰からなのかも分からない。


 返事。


 その言葉を見た時、奈津はあの音を思い出した。


 とん。


 自分が何かをした後に鳴る音。


 あれは、返事だったのだろうか。


 奈津は急に気持ちが悪くなり、封筒ごと紙をゴミ箱に捨てた。


 その日、奈津は会社でもずっと落ち着かなかった。コピー機の作動音、電話の着信音、誰かが机を指で叩く音。その全部が、あの音に似て聞こえた。


 帰り道、駅前のドラッグストアで耳栓を買った。


 ついでに、消臭スプレーとカップスープも買った。部屋の匂いを少し変えたかった。あの部屋に戻ること自体が、もう少し嫌になっていた。


 マンションに着くと、集合ポストの前に隣の男性が立っていた。


 灰色のスウェット。痩せた背中。新聞を抜き取る手。


 奈津は思い切って声をかけた。


「あの、すみません」


 男性はゆっくり振り向いた。


「最近、夜に音、しませんか」


 男性はしばらく奈津を見ていた。


 その目が、ひどく疲れているように見えた。


「聞こえますか」


 低い声だった。


 奈津は少し戸惑った。


「はい。壁とか、床とか。小さく叩くみたいな」


 男性は新聞を折りたたんだ。


 そして、周囲を見回すようにしてから言った。


「返さない方がいいです」


 奈津は何も言えなかった。


 男性は続けた。


「音がした後に、壁を叩いたり、床を踏んだり、咳払いしたり、そういうのをしない方がいいです」


「どういうことですか」


「分かりません。ただ、前の人もそう言ってました」


 前の人。


 奈津はその言葉を聞き返そうとした。


 けれど、男性はもう話を終えたように、エレベーターの方へ歩いていった。


 その夜、奈津はできるだけ音を立てないように過ごした。


 ドアを閉める時は、最後まで手を添えた。食器は洗わず、流しに置いたままにした。テレビもつけなかった。スマホはマナーモードにした。


 部屋は静かだった。


 静かすぎて、冷蔵庫の音がやけに大きい。


 十一時を過ぎた頃、奈津は布団に入った。電気は消さなかった。耳栓も使わなかった。聞こえない方が怖い気がした。


 しばらく何も起きなかった。


 奈津は目を閉じた。


 眠りかけた時だった。


 とん。


 壁から聞こえた。


 奈津は目を開けた。


 息を止める。


 何もしない。


 返事をしない。


 とん。


 今度は床。


 奈津は布団の中で、指先を握りしめた。


 とん。


 玄関。


 とん。


 天井。


 とん。


 洗面所。


 音は一つずつ場所を変えていった。


 奈津は動かなかった。


 音が鳴るたびに、そこに何かがいるというより、部屋の形を確かめられているような感じがした。壁、床、天井、玄関、洗面所。ここに住んでいるものの輪郭を、外側から叩いて探っている。


 やがて音は止まった。


 奈津はそのまま朝まで眠れなかった。


 翌日、奈津は会社を休んだ。


 管理会社に電話し、前の入居者について聞いた。もちろん、詳しいことは教えてもらえなかった。ただ、担当者は少し困ったように、「短期間で退去されていますね」とだけ言った。


 理由は分からないという。


 奈津はネットでマンション名を検索した。


 事故物件サイトには載っていなかった。


 掲示板にも特に何もない。


 けれど、古い地域掲示板の過去ログに、似た住所の書き込みが一つだけ残っていた。


 「夜に壁を叩く音がする部屋について知ってる人いますか」


 投稿は十年以上前のものだった。


 返信は三つしかなかった。


 ひとつ目は、ただの配管では、というもの。


 ふたつ目は、管理会社に相談しろ、というもの。


 三つ目には、短くこう書かれていた。


 「それ、音じゃなくて確認ですよ」


 奈津は画面を閉じた。


 それ以上は見たくなかった。


 夕方、奈津は近くのビジネスホテルを予約した。数日だけでも部屋を離れようと思った。荷物をまとめる間、部屋の中は妙に静かだった。


 下着と着替え、充電器、財布、化粧ポーチ。


 必要なものをバッグに詰めて、最後にスマホを取ろうとした。


 その時、スマホの録音アプリが開いていることに気づいた。


 録音中だった。


 奈津は自分で起動した覚えがなかった。


 画面には、録音時間が表示されていた。


 十一時間三十二分。


 朝からずっと録音されていたことになる。


 奈津は止めようとした。


 けれど、指が止まった。


 聞いてはいけない。


 そう思った。


 でも、聞かなければならないとも思った。


 奈津は再生ボタンを押した。


 最初は何もなかった。


 朝の部屋の音。遠くの車。冷蔵庫。奈津が布団から起きる音。洗面所の水音。


 そして、奈津が管理会社に電話している声が入っていた。


 自分の声を録音で聞くのは、いつも少し気持ち悪い。実際より低く、他人の声みたいに聞こえる。


 再生は進んでいく。


 昼の静かな部屋。


 奈津がパソコンを開く音。


 ネット検索のキーボード音。


 過去ログを見つけた頃だろうか。


 その時、録音の中で、音がした。


 とん。


 奈津はスマホを握ったまま固まった。


 録音の中の奈津は、その時、部屋にいた。


 確かにいた。


 でも、音がした後、録音の中で奈津の声が聞こえた。


「はい」


 奈津は息が止まりそうになった。


 言っていない。


 少なくとも、覚えていない。


 録音の中では、その後にまた音がした。


 とん。


 少し間があって、また奈津の声。


「はい」


 音。


 声。


 音。


 声。


 それが何度も続いていた。


 まるで、誰かに名前を呼ばれて返事をしているみたいだった。


 奈津は再生を止めた。


 部屋は静かだった。


 窓の外はもう暗くなっている。カーテンの隙間から、向かいのマンションの明かりが細く入っていた。流しに置いたままの食器から、少し酸っぱい匂いがした。


 奈津はバッグを掴み、部屋を出た。


 玄関の鍵を閉める時、手が震えた。


 鍵を回す。


 かちゃり。


 その直後、ドアの内側から音がした。


 とん。


 奈津は振り返らなかった。


 エレベーターを待つ時間が長く感じた。廊下の蛍光灯は白く、床には小さな虫の死骸が落ちていた。隣の部屋のドアの下から、細い光が漏れている。


 エレベーターが来た。


 奈津は乗り込んだ。


 扉が閉まりかけた時、隣の男性が廊下の奥に立っているのが見えた。


 男性は奈津を見ていた。


 そして、口を動かした。


 声は聞こえなかった。


 けれど、その口の形だけは分かった。


 「返したんですね」


 ホテルに着いてから、奈津は部屋の電気を全部つけた。


 狭いシングルルームだった。ベッドと机と小さな冷蔵庫。壁紙はきれいで、浴室からは消毒液の匂いがした。エアコンの音は一定で、変な隙間もない。


 奈津はようやく息を吐いた。


 シャワーを浴び、コンビニで買ったおにぎりを食べた。テレビはつけなかった。スマホも見なかった。録音アプリは削除した。


 日付が変わる頃、奈津はベッドに入った。


 眠れそうだった。


 ここなら大丈夫だと思った。


 部屋が違う。


 壁が違う。


 床が違う。


 あのマンションから離れている。


 目を閉じる。


 エアコンの音。


 隣室の水音。


 遠くでエレベーターが止まる音。


 知らないホテルの、普通の夜の音。


 その中に、ひとつだけ混じった。


 とん。


 奈津は目を開けた。


 音は壁からではなかった。


 床でも、天井でも、玄関でもなかった。


 枕元のスマホが、暗い画面のまま震えていた。


 通知は出ていない。


 電源も切れている。


 それでも、スマホの中から、小さく音がした。


 とん。


 奈津は手を伸ばさなかった。


 しばらくして、スマホの黒い画面に、音声入力の文字だけが白く浮かんだ。






 「はい、と聞こえました」




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