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93.刻の深淵に触れる者

書庫の扉は、何百枚もの薄い石板を重ねたような特異な構造をしていた。

ヴァレスが手を扉の紋章にかざすと、石板が複雑にスライドし、吐息のような風と共に重い口を開いた。

一歩踏み込むと、そこには異界の数万年に及ぶ記憶が、膨大な量の羊皮紙や結晶体として堆積していた。

「……さて、我の求める知識はあるかな?」

トリトスが目を閉じ静かに手をかざすと、広大な書庫の空気が震え始めた。

無数の書物や結晶体から、淡い光を帯びた「文字」が霧のように立ち昇り、トリトスの周囲を渦巻く。

「……見つけたぞ」

トリトスが目を見開くと、渦巻く光の中から一冊の古びた本が、導かれるように彼の手元へと飛来した。

それは、革表紙が生き物の皮膚のように脈動し、中央には文字か絵か分からない模様が深く刻印された禁忌の書。

「これは……神代の黙示録か」

トリトスが本を開くと、黄金色のホログラムが空間に浮かび上がった。

そこには異なる世界――様々な異界が細い糸で繋がれている図が映し出される。

「ふむ……、ここからブラックボックスを探すのは手間だな。ヴァレス、コアを出してくれ。」

ヴァレスが手さげの鞄からコアを取り出すと、その瞬間に反応が起きた。

コアの中の「針のない歯車」が、凄まじい火花を散らしながら高速で回転を始めたのだ。

「……なるほど、そう来るか」

トリトスがコアをホログラムの渦にかざすと、散らばっていた無数の糸が一斉に震え、一箇所へと収束していった。

様々な異界を繋ぐ糸の結び目——。

そこに、ネオンに彩られた歪な街の光景が拡大され、浮かび上がる。

「ブラックボックス。やはりここが特異点か。……見てみろ、ヴァレス。糸が赤く変色している」

トリトスが指し示した先、街の中心部から伸びる細い糸が、凝固した血のように赤黒く染まり、異界へと侵食を開始していた。

「このコアは、街に眠る『対の心臓』に引かれ、次元そのものを引き寄せているのだ。このままでは、あの街は異界の質量に耐えきれず、空間ごと圧搾されることになる」

その時、ホログラムの中に一瞬、オレンジロードの地下通路が映し出された。そこには、銃を手に持ち、不敵な笑みを浮かべて暗闇を見つめるイーグルの姿があった。

「あやつめ、もう嗅ぎつけたか。だが、相手が悪い」

「トリトス様、どういうことですか?」

「黙示録によれば、二つのコアが一定の距離に近づいた時、『刻の番人』が目覚める。それは侵入者を排除するための防衛機構ではない。二つの世界を衝突させ、強制的に一つに統合するための……いわば、世界の清掃員だ」

直後、書庫全体が激しい振動に襲われた。

天井の隙間から「崩壊した時間」が砂となって降り注ぎ、歴史ある魔導書たちが触れたそばから灰へと変わっていく。

「タイム・イーター(時間喰い)か。あちらの番人が目覚めたようだな。……ヴァレス、準備しろ。ここにある知識は全て我が脳内に刻んだ。これ以上の長居は無用だ」

トリトスは逆回転を続けるコアを力強く握りしめ、出口へと歩き出した。

「これよりブラックボックスへ帰還する。ヴァレス、貴殿の魔力を全て我に預けろ。次元の壁を強引にこじ開け、あの不届きな何でもイーグルの背中を蹴り飛ばしに行くぞ」

「……御意にございます、トリトス様!」

ヴァレスがその場で跪き、両手を天に掲げると、彼女の全身から濃密な赤色の魔力が噴出した。

「我が魔力の全てを捧げます……! 開け、次元の門!」

奔流となって押し寄せる魔力を、トリトスはその右手に握られた「時の神のコア」へと流し込む。

コアは限界を超えて発光し、その光が周囲の砂塵を弾き飛ばした。

目の前の空間が、まるでガラスが割れるようにパキリと音を立てて裂け、その向こう側にブラックボックスの街の夜景が歪んで見え始める。

「……行くぞ」

トリトスが裂け目に一歩踏み出したその時、書庫の奥底から、幾千もの時計の秒針が重なったような、悍ましい「音」が響いてきた。

目覚めた『刻の番人』が、逃走を許さぬとばかりに異界の底から這り上がってきたのだ。

「ヴァレス、振り返るな! 鏡の向こうへ跳べ!」

二人の体が次元の狭間へと吸い込まれる。

背後で、数万年の歴史を誇った「禁忌の書庫」が、時間を喰らう砂となって完全に崩れ去る音がした。

その刹那、意識を白光が塗りつぶす。

次にトリトスが目を開けた時、鼻を突いたのは淀んだ異界の空気ではなく、安っぽい安物のオイルと、使い古された弾薬の匂い――オレンジロードの地下通路の、湿った夜の匂いだった。

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