36.穏やかなる帰還
それから数週間後、ブラックボックスの街は再び穏やかさを取り戻していた。「黒い花」の密造組織は壊滅し、イシュタルは逮捕された。
彼の背後にいた、ミルストンの残党も次々と摘発されていく。
アリエルは、再び静かなバーテンダーとして、BAR【プラチナ】のカウンターに立っていた。
あの夜の出来事は、悪夢のようでもあり、同時に彼の心を縛っていた過去の鎖を断ち切る、決定的な瞬間でもあった。
幻覚の中で見た過去の罪は、決して消えることはない。
それでも、彼はもう一人ではない。大切な人々がそばにいる。その事実こそが、彼が前に進むための確かな光だった。
ある日の午後、閉店後の店に、一人の客がやってきた。
それは、イブだった。彼女は黒いコートを脱ぎ、静かにカウンターに座った。
「…無茶をさせて、ごめんなさい。」
イブはそう言って、深く頭を下げた。
アリエルはグラスを磨く手を止め、彼女の顔を見つめる。
「俺を試したのか……。」
アリエルの問いに、イブは静かに頷いた。
「ええ。イシュタルは、あなたの過去を完全に把握していた。
私は、あなたが本当に過去を乗り越えたのか、確かめる必要があった。
そして、あなたを救うための唯一の手段が、あなたの大切な人々を巻き込むことだと分かっていたから」
イブの言葉は冷徹で、しかしどこか悲しみを帯びていた。
彼女は、アリエルを救うために、最も危険な賭けに出たのだ。
「…あなたの過去も、彼と同じくらい重いものだと知っている。
でも、あなたはもう、私のような存在ではない。
あなたは、光の中で生きることを選んだ。
そして、あなたの隣にはあなたを信じる人々がいる。
それが、私の最後の任務だったのよ」
そう言うと、イブはカウンターに小さな封筒を置いた。
「…これは?」
「あなたが、私のような闇の住人と二度と関わらなくて済むように。
あなたの過去に関する、あらゆる情報を消去する手はずを整えておいたわ。
これで、あなたは完全に自由よ」
イブはそう言い残すと静かに立ち上がり、店を後にした。
アリエルは封筒を手に、黙って彼女の後ろ姿を見つめた。
彼女の背中は、どこか寂しそうで、しかし、彼に救われた安堵のようなものが感じられた。
その日の夜、BAR【プラチナ】には、イーグルとローズがやってきた。
彼らはアリエルに、あの夜の無謀さを冗談めかして責めながらも、温かい笑顔を向けていた。
アリエルは何も言わず、彼らのためにグラスに酒を注ぐ。
そのグラスは、かつてのように拳銃を隠すためのものではなく、大切な人々と過ごすためのものだった。
彼の心には、もう過去の闇はない。
あるのは、温かい光に満ちた、新しい日々への希望だけだった。




