33.血の対価
夜の帳が降りた頃、アリエルはミルストンの旧研究施設にたどり着いた。
周囲は静まり返り、荒廃した建物からは不気味な気配が漂っている。
彼はかつて訓練を受けた記憶を辿りながら、警備システムの死角を縫って侵入した。
目的地は、地下にある「研究室D-7」。アリエルにとって、そこは過去の自分を構成する一部であり、最も忌まわしい場所だった。
地下へと続く階段を下りると、湿った空気と化学薬品の匂いが鼻をつく。
重い扉の向こうから、かすかな光が漏れていた。
扉に手をかけると、微かに震える。
それは恐怖ではなく、過去との対峙を前にした、高揚感のようなものだった。
アリエルが扉を開けると、そこには無数のモニターと、薬品の入ったガラス管が並ぶ、広大な研究室が広がっていた。そして、その中央で、背を向けて何かに熱中している男がいた。燃えるような赤い髪、血のように赤い髪色。イシュタルだった。
「…久しぶりだな、イシュタル」
アリエルの声に、イシュタルはゆっくりと振り返った。彼の顔には、アリエルと同じ、この組織で訓練を受けた者特有の冷徹な知性が宿っていた。
「ああ、アリエル。いや、今はバーテンダーか。君がここに来るとは思っていたよ。だが、少しばかり遅かったようだ」
イシュタルは嘲笑を浮かべ、アリエルの足元を指差した。床には、黒い花の抽出液が染み込んだ土が散らばっている。その横には、実験に使われたと思われる無数の空の試験管が転がっていた。
「何をした」
アリエルの問いに、イシュタルは楽しそうに笑う。
「完成させたんだ。君がいた頃にはまだ未完成だった『黒い花』をね。これで、僕はミルストンが夢見た『完璧な支配』を成し遂げる。この街を、僕の掌の上で踊らせてやるさ」
イシュタルの言葉に、アリエルの怒りがこみ上げてきた。彼は静かにナイフを抜き、構える。
「俺は、お前を止める」
「できるかな?君はもう、あの頃の君じゃない。ただのバーテンダーが、僕を止められるとでも?」
イシュタルはそう言いながら、素早くアリエルに向かって小型の銃を構えた。だが、アリエルはそれよりも速かった。
彼は床に転がっていた試験管を蹴り上げ、イシュタルの視界を遮る。その一瞬の隙に、アリエルは懐に隠していたナイフを投擲した。ナイフはイシュタルの手元をかすめ、彼の持っていた銃を弾き飛ばす。
「ふっ…さすがだ。しかし、君の戦い方は、あの頃から変わっていない」
イシュタルはそう言いながら、研究室の奥にある壁のボタンを押した。すると、床から大量の白い煙が噴き出し、アリエルの視界を奪う。
「これは、君が最も得意とする戦法だろう?」
イシュタルの声が、嘲るように響く。アリエルは煙を吸い込まないように口元を覆い、身を低くした。しかし、彼は気づいた。
この煙は、ただの煙ではない。微かに甘い香りが混じっている。これは、「黒い花」の成分を混ぜた煙だった。
アリエルの意識が、少しずつ混濁していく。幻覚が見え始め、かつての暗殺者としての任務の記憶が、鮮明に蘇ってきた。人を殺め、血に濡れた自分の姿が、目の前に現れる。
「どうした、アリエル。その幻覚は、君が殺した人々の、血の記憶だ。君は、どれだけの命を奪ってきた?そのすべてが、今、君の心に突き刺さっている…」
イシュタルの言葉が幻覚と混じり合い、アリエルの精神を蝕んでいく。
彼は自分が誰なのか、何のためにここにいるのか、分からなくなりかけていた。その時、彼の脳裏に、ミアの笑顔、イーグルの穏やかな声、そしてローズの真剣な眼差しが浮かんだ。
「俺は…ただのバーテンダーだ…!」
アリエルは叫ぶように呟き、強く頭を振った。幻覚は、少しずつだが、薄れていく。彼は、過去の自分を乗り越え、今の自分として戦わなければならないことを悟った。
アリエルは再びナイフを構え、煙の中のイシュタルの気配を探る。
「…その血の対価は、お前の命で払ってもらう」
アリエルの声は、冷徹な殺意に満ちていた。




