212. 【北端の港町アステリア】
アストラル・ノアから北へ。
一行を乗せた馬車は、乾いた大地を抜け、潮風の香りが混じる街道をひた走っていた。目指すは大陸北端の港町、アステリア。そこは北の大陸「デッドロック」へと渡る定期船が出る、大陸の果ての玄関口である。
馬車の揺れに身を任せながら、ヴァレスは愛用のピンクの手下げ鞄を膝に置き、不満げに窓の外を眺めていた。
「BARを離れて数日……。まさかこのような、潮風で髪が痛みそうな場所まで来ることになるとは思いませんでしたわ」
「そう言うな。デッドロックへ渡るには、ここから出る砕氷船に乗るしかないのだ」
隣に座るトリトスが、いつもの無表情ながらも静かに諭す。彼の視線は、既に馬車の窓から見える水平線の先、氷の海へと向けられていた。
「ヴァレス様、これでもアステリアは海産物がとっても美味しいと評判なんです。あ、あの……私も姉と一緒に美味しいお店を探しますから!」
マールが少しでもヴァレスの機嫌を取ろうと、隣のジェシカと顔を見合わせて微笑む。ジェシカもまた、故郷に近づく不安を隠すように小さく頷いた。
「ええ、少しでも英気を養っておかないと。デッドロックに入れば、温かい食事すら贅沢になるかもしれませんから……」
そんな一行の様子を、向かいの席で腕を組んでいたローズが、冷徹な瞳で見守っていた。彼女の膝の上には、既にアステリアの港湾局から傍受した「船の運行状況」と「北の磁気嵐」のデータが表示された端末がある。
「浮かれるのはわかるけど、気は緩めないでね。デッドロックの『紫の輝石』を狙っているやつらも、ブラッドアイ族を狙っているやつらも、どこに潜んでいるか分からないから」
ローズの静かな、だが重い言葉に、馬車内の空気が一瞬で引き締まる。
「あら、掃除の邪魔をする不届き者がいるということですの? ちょうど退屈していたところですわ。わたくしが完璧に『お片付け』して差し上げますわよ」
ヴァレスが鞄の金具をカチリと鳴らし、妖艶に微笑む。その赤い瞳には、公爵家の令嬢としての矜持と、好戦的な魔族の輝きが宿っていた。
やがて、坂を下った馬車の視界が開けた。
眼下に広がるのは、立ち並ぶ堅牢な石造りの建物と、巨大なマストを並べる港。そしてその先には、すべてを拒絶するように凍てつく紺碧の海が広がっていた。
北の最果て、アステリア。
ここから先は、BAR【プラチナ】の平穏も、アストラル・ノアの法も届かない、極北の死地への一歩となる。




