207. 【七色の輝石と北の伝承】
BAR【プラチナ】が閉店してから六時間。窓の外では昼下がりの陽光がスラムの埃を白く照らし、街の歯車が軋む音が遠くから響いていた。
「……うう、頭が割れる……。誰だ、俺の頭の中で大砲を撃ってるのは……」
二階から、死に体のような足取りでイーグルが降りてきた。特注の黒いロングコートを羽織り、トレードマークの黒いハットを目深に被っているが、その顔は青白く、伝説の古酒の代償を全身で受けている。そんな彼を待ち構えていたのは、冷ややかな笑みを浮かべたトリトスだった。
「クハハ! 醜いなイーグル。これでも飲んで、その無様な脳漿を叩き起こすがいい」
トリトスが差し出したのは、紫色の煙が立ち上る、およそ飲み物とは思えない異臭を放つ「酔い覚め」の薬だ。イーグルが本能的に後ずさりするが、その背後には逃げ道を塞ぐアリエルが立っていた。
「おい、せっかくの好意だ。残さず飲め」
「待て、アリエル! それは好意じゃなくて殺意だろ! 離せ、やめ……ぶごっ!?」
アリエルがイーグルの頭を無造作に抑え込み、無理やり薬を流し込む。イーグルが白目を剥いて沈むのと同時に、キッチンからは食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
今日の食事担当はローズとアリスだ。
「はいはい、騒がない。アリス、そっちのオムレツ焼けた?」
「バッチリッス! 特製のスパイスを効かせておいたッスよ」
ローズが大皿を並べる中、横から小さな手が伸びる。
「……ん、検品。塩分濃度、適正……美味しい」
ふさふさとした尻尾を揺らしながらつまみ食いをするのは、狐人族の青年フェネカだ。
「あーっ! フェネカ、またつまみ食いしたッスね! まだ並べてる途中ッス!」
アリスが慌てて追い払うのを、ヴァレスは隣に座るマールとジェシカを気遣いながら、優雅に見守っていた。
「さあ、お二人とも。少しは顔色が良くなったわね。遠慮せずにたくさん召し上がれ」
「……はい。ありがとうございます、ヴァレスさん」
ジェシカは、安らぎを噛み締めるようにスープを口にした。全員が席につき、食事が進む中、アリエルがふとジェシカに視線を向けた。
「……お嬢さん。あんたらが狙われた理由、ただの希少種だからってだけじゃねぇんだろ」
食後の茶が淹れられた頃、ジェシカは重い口を開いた。
「……はい。『七つの輝石』の伝承をご存知ですか? 神話の時代に月からこぼれ落ちた欠片……。私の故郷、北の大陸『デッドロック』で、私たち血眼族は、その一つ――『紫色の輝石』を守護してきました。奴らは、石そのものか、鍵となる私を狙ったのです」
「……紫の石、か」
アリエルはシガーを燻らせ、紫煙の向こう側を見つめた。
「輝石もいいが、俺は今日は休ませてもらう。気分転換にギルドの職員でも口説いてくるぜ」
イーグルはコートを翻し、ふらつきながらも席を立つ。
「フム……ならば我が北へ行こう。北の食文化や書物に興味がある」
トリトスはローブを纏い、バックパックを背負った。
「ボクは戦闘や護衛よりもサポート向けだから、魔道具とゴーレムの製作をしてるよ。あ、これ、ローズから聞いて作ってみたヘッドセット式のインカム。持ってってよ」
フェネカは席を立ち、トリトスに銀色のインカムを手渡した。
「私はトリトス様と共にいきますわ。北にコネクションを作れれば何かと便利かと」
ヴァレスも立ち上がり、旅用のローブを羽織る。
「俺は店がある。トリトス、ヴァレス。護衛も兼ねて北へ向かってくれるか?」
アリエルが食器を片付け始めた時、奥で一服していたローズが口にした。
「たまには私も行こうかしら」
「ローズ姉さんも!? じゃあウチも行きます!」
アリスが元気に声を張るが、アリエルに止められた。
「いや、アリス。お前は残れ。BARの華がいなくなっちまったら閑古鳥が泣いちまう」
「アリエル様、ウチがいないと寂しいんスか?」
「あぁ……、寂しい寂しい。そんな訳でお前と俺は留守番な」
「うわ、棒読みッス!」
アリスは頬を膨らませるが、アリエルは真剣な顔で続けた。
「冗談はさておき。アリス、お前にはこの店の防衛と、イーグルのフォローを頼みたい」
「……了解ッス! ウチがしっかり守り抜いてみせるッス!」
ローズがローブのフードを被り、一行を引き連れて店を出る。
「じゃあ、行ってくるわね。アリエル、あんまり無茶して店を壊さないように」
一行が去り、静かになった店内でアリエルが声をかけた。
「……さて。フェネカ、インカムの感度はどうだ?」
「……良好。いつでも追跡可能だよ」
フェネカはヘッドセットに指を添え、淡々と答える。
「そうか。……さて、夜の仕込みでもするか。アリス、酒やエール、それにつまみ用の食料の買い出しを頼むぞ」
「了解ッス!」
アリスは金貨と銀貨を受け取ると、跳ねるような足取りで市場へと向かった。
窓から差し込む陽光は穏やかだが、アストラル・ノアの平穏が終わりを告げようとしていることを、掃除屋たちはまだ知らない。




