131.【聖域の密約:深海よりの救い】
アストラル・ノアのスラムは、常に夜の底に沈んでいる。
魔導設備の恩恵から見捨てられたこの場所は、数少ないガス灯が頼りなく瞬くだけで、視界のほとんどが重い闇に塗り潰されていた。
BAR【プラチナ】もまた、その暗がりに溶け込んでいる。店内に音楽はない。聴こえるのは、遠くのメインストリートから漏れるスラムの雑音と、刻を告げる時計塔の鐘の音、そして氷がグラスとぶつかる硬質な響きだけだった。
カウンターにはギルドの「まともな三人」――エーシャ、ラルグ、カルカの姿があった。
エルフのエーシャは、差し出された酒に口をつけず、ただ一点を見つめて震えていた。
「……もう、限界なんです。毎日、数字を誤魔化して、あいつらの汚職の帳尻を合わせて……」
エーシャの長い耳が、絶望に力なく垂れる。彼女は、ギルド内では希少なAランクの魔法使いだ。その実力ゆえに、上層部にとっては都合の良い「便利な道具」として、膨大な事務と汚職の隠蔽に利用され続けてきた。
オーナー兼店長のアリエルは、黙って彼女の前に温かいミルクを加えたリキュールを差し出した。
「俺に言っても、出せるのは酒と、精々が愚痴の聞き役くらいだ。……だが、あんたのその顔。ただの仕事の疲れじゃねぇな?」
アリエルはぶっきらぼうに、顎でカウンターの最果てを示した。
「……あそこに座ってる男は、しがない『何でも屋』だ。もし、その溜まりに溜まった澱を、酒以外の方法で掃除したいってんなら……あいつに話してみな」
エーシャはふらつく足取りで、光の届かぬカウンターの隅へと歩み寄った。
そこには、琥珀色のグラスを揺らし、立ち上る紫煙の向こう側で冷徹な瞳をした男が座っている。ギルドの職員である彼女ですら、この男の名を知らない。
「……あの、アリエル様から、何でも屋だと伺いました」
「酒一杯分の猶予はやる。座れ」
男は顔を上げず、隣の空席を指した。
エーシャは意を決して、震える声を絞り出した。
「私個人の依頼です。……西にある『深海の森』に住む父が、重い病に倒れました。必要な薬の材料を調達し、私を故郷の里まで送り届けてほしいんです」
「深海の森か」
男がようやく視線を向けた。太陽の光が届かぬほど樹木が密集し、Aランクの魔法使いであるエーシャですら単独行を躊躇う危険地帯だ。
「実家には、ギルドが私の給料から天引きして買い占めた『治療薬』を送っていました。でも、今日届いた手紙で分かったんです……中身はただの薄めた水だった。ギルドに、父の命を弄ばれていた……。もう一刻を争います。どうか……!」
「護衛と採取。……あいにくだが、俺の報酬は高いぞ」
男の冷徹な声に、エーシャは懐から重みのある袋を取り出し、カウンターに置いた。
「わかっています。これはギルドを通さない、私自身の貯蓄です。……前金で金貨30枚。材料を調達した時点で金貨20枚。そして、無事に里へ着いたらさらに金貨10枚。 合計で60枚払います。これで、受けていただけますか?」
男は、その金袋を手に取ることもなく、タバコを灰皿に押し付けた。
「いいだろう。その依頼、引き受けた。……アリエル、明日の店は任せたぞ」
カウンターの中でアリエルが、ニヤリと不敵に笑う。
「了解だ。……一人で行くんだ、精々背後に気をつけろよ」
「アリエル様、イーグル様はお一人で行かれるんスか?」
アリスが心配そうに尋ねるが、イーグルと呼ばれた男は、既にコートを手に立ち上がっていた。
「仕事に大勢はいらない。……エーシャ、明朝、西の門だ。遅れるなよ」
時計塔の鐘が、重く夜空に響き渡る。
薄暗いスラムの片隅で交わされたその密約は、腐敗したギルドの崩壊へと繋がる、静かなる導火線となった。




