30 後日談 ナギ、都会に行く 2
神戸のホテルに到着してから、およそ一時間後のことだった。
コンコン、と控えめなノック音に続いて、扉の向こうから聞こえてきたのは、懐かしく優しい声。
「航太と櫂は私がちゃんと見てるから、あなたたち夫婦は街に出かけてらっしゃい」
微笑む青の母。
彼女は電車で一足先にホテルへ来ていて、まるでそれが当然のように笑っていた。
青とナギは、一瞬言葉を失い、それから互いに目を見合わせる。
──二人きりで出かけるなんて、いつぶりだろう。
夫婦になり、子どもが生まれ、日々はめまぐるしく過ぎていった。
だからこそ、こうして誰かに背中を押してもらわなければ、きっと今日という日はなかっただろう。
静かに扉が閉まり、二人はホテルを出た。
繁華街へと歩みを進めると、人の波が彼らを包み込んだ。
ナギは都会の人の多さに驚き、少し戸惑っていた。
ワンピースのすそが、歩くたびにかすかに揺れている。
その揺れが、ナギの緊張を物語っていた。
しばらく二人は、言葉もなく並んで歩いた。
ふとした瞬間だった──
「きゃっ!」
ナギに何かがぶつかった。
小柄な少年が体当たりしてきたと思った次の瞬間、 彼女のあずき色のエナメルのショルダーバッグが、少年の手に握られていた。
「ナギ!」
青の声が響く。
少年は驚くほど素早く走り出したが──
青の足もまた、漁師仕込みの速さだった。
数十メートル先で、青は少年を捕まえ、ナギのもとへと引き戻す。
少年は中学生ほどの年頃。
口を尖らせ、腕をふりほどこうとするが、青の手はびくともしない。
「おかえりなさい」
ナギがふわりと微笑んで、少年に声をかけた。
「……は?」
「バッグ、返しに来てくれたのね?」
「どこが!これが返しに来たように見えるかよ!」
恥ずかしさを隠すように、少年は悪態を吐く。
だがナギは、まるで怒るそぶりも見せず、バッグの中から財布を取り出した。
「じゃあこれで、美味しいものでも食べて」
そう言って、千円札2枚を少年に差し出す。
「……はあ?」
少年は面食らったように眉をひそめた。
「なんで……?」
「……じゃあ、これは?」
ナギは再びバッグを開け、塩レモンキャンディを2つ取り出す。
「これなら……もらっとく」
少年はぶっきらぼうにそれだけ言うと、キャンディを受け取り、踵を返して去ろうとした。
だが、ふと振り返り──
「……姉ちゃん、そのワンピース、似合ってるよ」
その言葉に、青の眉がぴくりと動いた。
「チュー坊のくせして、そんなセリフはまだ早ぇんだよ」
青は軽く少年の頭をぐりぐりと撫でる。
少年は文句を言いながらも、どこか誇らしげな顔をして雑踏へと消えていった。
「……これで良かったのか?」
青がぽつりと問う。
ナギは、エナメルのバッグを大切そうに抱きながら答えた。
「人魚にもね……あの子みたいな目をした子がいたの。親がいなくて……いつも寂しそうだった。だから……ああするのが良いと思ったの」
青は黙ってうなずいた。
ナギの優しさに、心がまたひとつ溶けていく。
「さあ、フルーツパフェを食べに行こう」
青が、ナギの手を取った。
「まだ、食べたことないだろ?」
ナギは一瞬驚いた顔をしたあと、微笑む。
「手をつながなくても、着いて行けるわ」
そう言いながらも、ナギの指先は、青の手をしっかりと握り返していた。
青は、さっき少年にナギの服装を褒められたことを思い出して、ほんの少し、都会の空気に警戒心を抱いていた──けれど。
その手の温もりがあれば、大丈夫だと思えた。
ホテルの一室では、ぐっすり眠る航太と櫂の寝息が聞こえていた。
ベッドの端に腰かけた青の母は、静かにその寝顔を見つめる。
──夫が亡くなってから、長い年月が経った。
けれど今、自分の腕の中には、青とナギが授けてくれた命がある。
「……ありがとう、ナギさん。青……ありがとうね」
声に出さなくても、その思いは夜の静けさに溶けて、
神戸の空へ、海の方角へ、静かに届いていった。
(了)
読んでいただき、ありがとうございます。
青い海のナギの本編はこれで終わりです。
次項は、掌編を考えています。
青い海のナギというタイトルは、初めは、人魚の物語なので、人魚は海にいるということで、単純に考えて。このタイトルをつけました。
しかし、物語を考えているうちに、タイトルに、青の名前も入っているなあと気づきました。
物語をもっと考えていると、青い海のナギというタイトルは、優しくナギを見守る西浜青という海の中にいるナギだなあと、温かい気持ちになりました。
ナギは人魚なので、人間から見たら天然で危なっかしいですが、そんなナギのことが大好きな青も微笑ましいです。




