29 後日談 ナギ、都会に行く 1
蝉の声がまだ残る、夏の朝。
美浜村の駐車場には、数台の車と波の音。そして一台のワゴン車の中に、ワクワクした空気が満ちていた。
ナギは、助手席に座りながら何度も手鏡をのぞいていた。
白い襟がついた水色のレーヨンのワンピースが、ふわりと膝にかかる。
肩からは、あずき色の小ぶりなエナメルのショルダーバッグ。
すっかり「都会に行く人」の顔になっていた。
後部座席では、二人の幼い息子たちが並んで座っている。
今日は特別な日だとわかっているのか、小さな蝶ネクタイとカーディガン、短パン姿で、おすまししていた。
ナギが髪を丁寧に整え、顔にほんのり日焼け止めの香りが漂っている。
「とうちゃん、まだかなー」
すると、遠くから一人の男が駐車場にやってきた。
日焼けした肌に、チェックの半袖の開襟シャツ。中にはうす黄色のロゴTシャツ。
下は紺色のジーンズ。頭の上には、使うでもなくのせたままのサングラス。
「おそーいっ!」
「とうちゃん、わかづくりー! ナンバ!」
息子たちが声を合わせて、覚えたての言葉ではやし立てる。
ナギがくすくすと笑い、横を向いたまま口元を手で隠した。
青は、車に乗りこみながら小さくため息をつく。
(……若作りって……そんなつもりじゃないのに)
実は、ほんの少しだけ迷ったのだ。
いつも通りの漁師スタイルで行こうと思っていたが──
ナギが今朝、あまりにも綺麗だったから。
風にそよぐ水色のワンピース。
エナメルのショルダーが、よそゆきの気持ちをそっと背負っていた。
(……隣に並ぶなら、少しは……な)
そんな思いで選んだ服だったのだ。
「似合ってるよ、青くん」
ナギが照れたように笑いながら、そっと言った。
その言葉に、青の中の小さな抵抗がふっと溶けていく。
「……ああ。お前もな」
そのひとことが、ナギの頬をわずかに染めた。
息子たちが、また騒ぎ出す。
「わかづくりー!」「ナンバー!ナンバー!」
「はいはい、お前ら、シートベルトしっかり締めろよー」
エンジンがかかり、車はゆっくりと美浜村を出発した。
向かう先は神戸。
ホテルで過ごす、家族四人のちょっとした夏の冒険。
そしてその先に、ナギにとって初めての“本当の都会”が待っている。
小さな村の人魚だったナギが、今や母となり、妻となり、
これから初めて出会う大きな街──
その胸の高鳴りと、青のささやかな気遣いが、車内の温度を少しだけあたたかくしていた。




