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ドラゴンと戦う少年の話

作者: 芥之 相

第一章 心優しき伝承の武士、病弱な少年


 「――ご飯、出来たわよ」

 「うん。分かった」

 背後で閉じる扉を見届け、少年は視線を元に戻した。

 丸まった背中はみすぼらしかったが、その瞳は希望や憧れを抱くキラキラしたものだった。

 古臭く、かびだらけでヨレヨレの巻紙は、何度も何度も読み返した事で文字は擦れて薄くなり、末巻に描いてある絵なんてほとんど見えなくなっていた。

 少年は幾度となくお母さんにねだり、音読してもらったからか……当時も読めた気がしたし、今でも鮮明に覚えているようだ。

 そこには、こう書いてあった。

 『ある村に、痩せこけ落ちくぼんだ顔の落ち武者がフラフラと彷徨い訪れた。

 着物はボロボロで履物も跡形が無い。唯一目新しい腰に提げた刀も、やる気なく垂れていた。

 村の人たちは、門の前で力尽きた武士を手助けした。

 艶やかな衣を与え。鮮やかな食を与え。ささやかな住処を与えた。

 その対価として、痩せた武士は暫くその村の守護者として生活をしていた。

 そんな中、出会った青年が居た。

 青年は幸せそうな武士に、村での暮らしと戦い方を教えた。

 そんなある日の事だ。

 いつもと変わらぬ日常が、村とその村民の時を攫って流れていくかに思えた。

 陽が沈んだ頃。

 ある若い戦士が血相を変えて村へ逃げかえってきたのだ。

 装備は原型が無く、全身くまなく汚れていた。武器も、手には握られていなかった。

 その戦士は「ドラゴンが出た!」としきりに叫び続けていた。

 村の人々は、その戦士が初めての戦場で我を失っただけだと、その原因を深く探ろうとはせず、その戦士を抱えて村の中へと運び込んだ。

 そんな村の人々を見送り、心優しき武士は門前で立ち尽くしていた。

 村が静かになり、風が肌を、髪を撫でて通り過ぎていく。

 松明の炎に照らされてか、心優しき武士の赤らんだ顔が闇中に浮かんでいた。

 心優しき武士はその場で屈み込み、戦士が横たわっていた土に触れた。

 戦士の血だろうか、土が赤黒く一塊になっていた。

 心優しき武士は立ち上がり、森へと駆けだした。

 風の如く草木を削りながら疾走するその姿はまさしく鎌鼬が如く。

 森を包む闇の衣すらも切り裂いていた。

 まさに一閃。

 一度の瞬きをした後には、心優しき武士は森の端に辿り着いていた。

 そこは切り立った崖だった。

 月明かりに照らされて、そこに居るたった二つの生命を映し出している。

 激しい波が大地を打つ様子が足裏から、耳から、鼻から感じることが出来る場所だった。

 心優しき武士は自身でも気がつかぬうちに、自然と腰に提げた刀の鵐目に手を乗せた。

 地球と水平になった刀はキラリと鈍く光を反射して辺りを威嚇する。

 だがその対象は、悠々と心優しき武士を見下ろしていた。

 鼻息荒く、僅かな傷も無い黒光りの深紅の鱗を逆立て弾きながら、戦士の死体を見せつけるように踏み荒らす。

 お前も直ぐにこうなるとでも言いたげに、口から炎を漏らしている。

 そして――ドラゴンは一度身を前に乗り出したと思えば脳をも揺らす程の巨大な咆哮し、瞬時に身を引いた。

 巨人をも包み込める巨大な翼を広げ、飛翔する。

 その巨体が地面から離れる際、無惨にも転がる死体は、心優しき武士を見上げている。

 青年の目に、光は宿っていなかった。

 心優しき武士の怒りは瞬時に頂点へと達する。

 それと時を同じくして、ドラゴンもまた怒り狂っていた。

 武士が走り出し、ドラゴンもまたそれに向かって突進する。

 瞬きすら許されないコンマ零秒の瞬殺。

 二人が交わった場所には、刀の軌跡を描いたような血痕が残されていた。

 ドラゴンは威勢よく振り返ろうとしたが、途中で地べたに這いつくばった。

 苦しみ悶えながら、顔と尻尾を腹部に近づけて丸まる。

 武士は刀を振って血を払い、鞘に納めた。

 目に光は無く、どこか悲しそうに見える。

 ただ、漠然と今何を見たかを噛み締めている。そんな風な背中だ。

 しばらく、風に吹かれながら髪をなびかせていると、ふとした時に武士は顔を上げた。

 ――そこに見えた光景に、武士は息を呑んだ。

 黄金色に輝く上半身ほどある卵が一つ、丁寧に作られた巣の端に置いてある。

 そして、それを囲う様に割れた卵が無数に、戦士の死体の上に転がっていた。

 武士がそれを見ていると、背後からドラゴンのうめき声が聞こえてきた。

 その声は、悲哀を含んでいる様に聞こえる。その悲哀は、自分自身の命の為ではない。

 武士の心に轟いた声は、そんな風だった。

 武士は踵を返し、刀を捨てて走った。走った。ただ、ひたすらに。

 村へは帰らなかった。どこへ向かっているのかも分からなかった。

 ただ、もう。

距離を進む度に人とはもう関わり合いになれないと、その暗く淀んだ心の奥底に、深く深く刻み込んでいた』

 少年がその文の意味を理解していたとは思えないし、それについては現在においても研究されている内容である。

 ただ、少年は。自分の境遇とは似ても似つかないその武士に、無意識のうちに自身の面影を重ねていたのかもしれない。

 強い武士、優しい武士、そして、何かを護り抜いた武士――逃げた武士。

 それらが自分自身であるように感じ、その時の少年は幸福感で満たされていたのだろう。

 巻紙を持ち上げる少年は、身でそれを表現していた。

心が温まっている様子が、紅潮した頬や震えで伝わってくる。

妙な親近感がそうさせている事に、少年自身気がついていないようだった。

 「――ご飯。冷めるわよ」

 「あ、はい」

 再びお母さんの背中を見届けて、少年は巻紙を丸めた。

 それを大切にしまい、少年はその手を口元に運んだ。

 小さく苦しそうな咳を数回。立ち上がり、扉を目指して歩く。

少年のその手の中には、血の跡が強く、強く、握り込まれていた。


 ――少年は、呼吸器官系の持病を患っていた。

 













第二章 十年後、気弱な少年

 「やっ――えいっ!」

 手の内に握られた棒切れとの境目が分からない程の細腕で、只一人、少年はその大木を相手に修行していた。

 少年は上下不揃いの半袖短パンを着用し、好き勝手に飛び跳ねた白色の髪を端正な顔の上で遊ばせている。

 村から少し離れた位置にあるその大木は、森にある唯一のけもの道を塞いでいるせいで、村人全員から疎まれ、何度も切り倒されそうになった跡が、痛々しく残されていた。

 しかし、隣国の開拓が進むにつれ、その村への貿易ルートが別に開拓され、その大木もけもの道も、今やその存在すら忘れさられる程のものに成り下がっていた。

 今となっては、少年の唯一の友人と呼べるものであり、それが奏でる葉音や風の音が、少年は大好きだった。

 だが、棒切れを投げ出してしまった少年の心境は、今や穏やかなものでは無い。

 あの日以来、憧れ、夢想していた外の世界は、少年が思っていたモノとは全く持って違っていたからだ。

 ましてや、少年と同じ歳の子供たちは皆。既に戦士と呼ばれる存在になっており、村の周囲を開拓したり狩りの手伝いをしたり、村を守ったり、国に徴兵されたり……。

 その劣等感も相まってか、ここ最近の少年は生気を失ったかのようにホロホロと彷徨っていた。

 当て所の無い感情をその大木にぶつける日々にも、もう飽き飽きとしていた。

 そんな毎日だ。

 「……お前もボロボロだな。僕が言えた事じゃないけど……ゴホッ――ゴホッ」

 喉を動かすのは、大木に向かって言葉をぶつけている時だけだ。

 昔から続く咳も、治ってはいない。

 「いいよな、みんなは元気でさ……僕なんか、戦士の登録さえさせて貰えないのに……それなのに、嫌がっちゃって――みんなが僕を横目に見てるの、分かってるんだ」

 少年は大木に寄りかかって膝を抱え、出来るだけ小さく丸まった。

 そして、嫌でも思い返す。

 暗闇の中で鮮明に浮かび上がってくる。

 何年も何年も目の前で繰り広げられた、戦士としての認定式だ。

 飛び跳ね喜ぶ子供たちと、涙ながらに抱き着く家族の姿――最初は憧れたが、それは後に嫉妬心へと変わり、今となっては無関心になった。

 思い出す度に悲しくなり、怒鳴りたくなる。

 息を吐き、心を落ち着かせ、少年は立ち上がった。

 辺りは既に茜一色で満ちていた。

 この時間になると、風が冷たくなって肌は張り、気持ちもより落ち込むが、その代わりに驚くくらい落ち着けた。

 少年は帰る前に一度、大木を思い切り蹴り上げた。

 大木はびくともせず、少年の足先だけが悲鳴を上げた。

 だがそれも、これから起きることに比べれば痛くもかゆくもない。

 少年は足先を両手で押さえながら帰路を進む。


 少年は村で、荒くれものたちに虐められていた。


























第三章 メナススの守護者

 

 「おい、カリフラワーが帰って来たぜ!」

 少年が村の門前でモジモジしていると、取り巻き二人を従えた小太りの少年が、叫びながら駆け寄ってくる。

 「お前ら、両側を囲え――よし……なぁ、おい。お前最近、この時間どこ行ってるんだ?」

 「…………いや」

 団子鼻を前に突き出しながら、小太りの少年が鼻の先が付くくらい詰め寄って来た。

 着ているシャツはパツパツで鼻息も荒く、餌を目の前に首輪を引っ張られているブタにしか見えなくて、少年は笑うのを何とか堪えていた。

 「おい、早く言え!」

 しかし、小太りの少年は我慢強くないのか、明らかに不機嫌な様子で喚いた。

 「お前も勝手に村を抜け出している事、バレたくないだろ?」

 「……うん」

 頭が悪そうな見た目をしている割に、こういうイジメの場面でだけやけに頭の回転が速い。

 だから戦士に選ばれないんだと少年は思うが、それは自分もだから惨めな気持ちになる。

 この村には未だに古臭い悪習が蔓延っていた。

 この場合の悪習とは、戦士他有事の人間以外は村を出ることを許されないというものだった。

 ここ最近では、村を出るのですら国の許可を得なければならず、お金の無い少年は国に便りを送れないから、外に出ることは許されていないのだ。

 「お前、このままだと国の牢獄送りだぞ!」

 「うっ……」

 居心地が悪く後退りしようにも、もやしみたいな取り巻きが左右から塞いでいるため叶わない。

 それに、そいつ等が小さく「やった」と呟いたのを、間違いなく少年は聞いた。

 少年は牢獄というものを単語でしか知らなかった。

 お母さんに聞いても答えてくれず、いい子にしていたら行くことは無いと諭されるばかりだった。

 それどころか、最近じゃ何を聞いても答えてくれなくなった。

 まともな教育も受けることは叶わず、気になること知りたいことは山のように湧いて来るのに……。

 その度に「お話を読んでいなさい」と古臭い巻紙を渡されるばかり。

 少年とお母さんとの会話は既に無くなっていた。

 そんな事を思い出し、自分が孤独であると再度認識し、少年は自分がどうしようもなく情けなくなってきた。

 何に頼る事も出来ず孤独で、何をしようにも規制がかかる人生に、何の意味があるのだろうか。遂に、それが分からなくなった。

 自然と目頭が熱くなってくる。

 ここで泣きだせば、笑われることは明らかだった。

 ただ、決壊したダムは直ぐには治らない。

 自分で気がついた時には、小太りの少年を突き飛ばして走り出していた。

 不意を突かれたからか、驚いていたからか、普段では考えられない力に驚いたからか、小太りの少年は素直にしりもちをつき、追いかけて来る気配も無かった。

 

 少年が勢いよく駆け込んだのは、自分の家の倉庫だった。

 埃や黴の匂いで充満し、物が乱雑に投げられた倉庫は、現在の少年にとってとても居心地が良かった。

 その中でもお気に入りだったのは、本物かどうかも分からない小太刀のようなものだった。

 少年は上半身よりも大きな小太刀を抱いて丸くなる。

 真っ暗な倉庫の真ん中で横になり、なるべく、なるべく小さくなった。

 ……こうしていると、例の武士の伝承を思い出す。

 大好きな記憶が、甦ってくる。

 幸せな十年前が――意識が、遠のいていく――

 憧れの武士、毎日の発見、甘えさせてくれたお母さん。

 思い出すだけで口角が上がり、心が暖かくなっていった。


 それからいくばくかの時間が経過した。

 少年は眠気眼を無理やりこじ開けた。

 優しい月明かりとそれに照らされる埃たちが目に入り、胸の上の小太刀が冷たい音を立てて床に転げ落ちた。

 上半身を起こした頃、次の情報が脳に伝播した。

 「……何かあったのかな」

 やけに外が騒がしかった。

 戦士たちが宴でもしているのだろうと、少年は想像しながら立ち上がり扉に手をかけた。

 だが、外から聞こえてくるのは、勇猛な戦士たちのうなり声や叫び声では無く、女性や子供たちの悲鳴や助けを乞う悲痛の叫びだった。

 少年は恐る恐る扉を開く。

 そこに広がっていた光景は、少年の予想だにしない、凄惨なものだった。

 村の至る所に焚かれた松明が揺らめき、暗闇の中にその様子を映し出している。

 今朝出立したばかりの戦士たちが各々に血を流し、苦しそうに悶えていた。

元は立派だった装備はボコボコで原型も無く、武器と呼ばれていた筈のものも今やその役割を成さず、無惨に地面へ突き刺さっていた。

 村の人々は忙しそうにそんな戦士たちを介抱している。

 その中には、少年のお母さんもいた。

 少年はそれを見て見ぬふりをし、状況を確認するために家から家へと隠れ移りながら門の方へと近づいて行く。

 土を擦る音、自分の呼吸する音に怯えつつ、門に一番近い家裏へと辿り着く。

 偶然なのか、必然なのか、そこに居たのは少年のお母さんだった。

 少年は自分の存在を気取られないよう、鐘打つ心臓を両手で押さえていた。

 目を強くつむり、息をひそめるのに全神経を注いだ。

 どうしてそうするのか、少年自体も分かっていないようだった。

 存在がバレたところでどうなる訳でもない。

 恐怖を覚えるのも、寂しいのも、年頃の少年なのだから当たり前のことだ。

 誰もがお母さんに甘えたい状況なのに。

 道中、そうした子供を何人も見かけた筈なのに。

 「――うちの子、見てない?」

 「あぁ、私のとこのも居ないのよ……どこに行ったのかしらこんな時に、あのバカ!」

 そんな金切り声で目を開く。

 四つん這いになって、急いで顔を覗かせた。

 少年のお母さんの前に居たのは、小太りの少年のお母さんだった。

 一目で親子だとわかる見た目をしていて、イジメられているところをよく助けて貰った記憶が蘇る。

 焦っているのか動揺しているのか、声の割に引け腰で、両手を大事そうに抱えている。

 「村の外に出たりして無けりゃいいけど……あのバカ、自分が弱いのを相当気にしていたから。何もできないくせに、直ぐ出しゃばって行こうとするし……好奇心だけは一丁前で」

 「――大丈夫よ」

 「え?」

 少年のお母さんは小さな手で、向かいにある怯えた両手を抱く。

 「子供たちはね、私たちが思っている以上に強いのよ。知らない所で勝手に学んで、他人を知って、大きくなっていく……大人が関与する部分なんて、ほんの一部しか残されていないの。あの子たちにも、自分の意思があるのよ。それを、忘れてはいけないわ」

 「だからって、放っておいたら勝手なことして死ぬのよ! 自分の知らない場所で、あの子が苦しんでいると思ったら、居ても立っても居られない……」

 「それは親の傲慢よ」

 「っ……あんた、自分の子供が心配じゃないの?」

 「心配は心配よ。私も人の親だからね……でもね、あの子なら大丈夫……私は、信じているわ」

 「何よ、あんた……それじゃぁ」

 「えぇ。私は私のやるべき事をやるわ。だから――あの子も、あの子で自分がすべきことを分かっていると、信じているわ」

 「でも、だからって――」

 会話の途中。気がつくと少年は走り出していた。

 お母さんが自分に何を期待しているのか、その言葉の真意さえも分からなかった。

 ただ、自分が見放されているなんて思いたくなかった。放任されているなんて信じたくなかった……甘えていたかった。胸が張り裂けそうなほど痛かった。

 家の隣にある倉庫を思い切り開いた。

 扉が立てた甲高い音と一緒に、月光が倉庫内を埋め尽くした。

 それに照らされる一本の小太刀に、少年の視線は注がれていた。

 自分が何をするべきか、自分の考えた結果がその小太刀一本だった。

 仮に小太りの少年が村の外に逃げ出していたりしていなければ、今から少年が取ろうしている行動は只の無謀な行動に過ぎない。

 そうでなくても、自殺しに行くようなものなのだ。

 だけど、誰に心配されるでもない。

 少年は勝手に村を出て、勝手に戦って死ぬ。

 それだけだ。

 少年は覚悟を決め、倉庫に入った。

 これからは、自分との戦い。過去との決別。

 そして、姿かたちも知らぬ強者との未知の戦いだ。

 

 村にはいくつか隠れた道が存在する。

 そのいくつかは大人に見つかり、閉鎖されたが、少年には小太りの少年が村の外に出たであろう道の見当がついていた。

 少年は小汚い布の切れ端で刀を無理やり腰に括り付け、再び家から家へと移りながらその道へと辿り着いた。

 そこは、少年が小太りの少年の自慢話で聞いた通りの場所であった。

 その村で一番大きな建屋の影に隠された木箱だ。

その中には、子供でも動かせる重量のモノが存在した。

 少年がそれを精一杯の力で動かすと、地下へと続く薄暗い階段が姿を現した。

躊躇いながらも、一歩、その階段を降りると、後は楽だった。

 スルスルと階段を駆け下りていくと、湿度が増し、温度も高い広々とした場所に出た。

 先に続く不気味なランプの明かりの群れが長々と続く廊下の壁を照らし、反面滑らかな床面の上でゆるやかに踊っている。

 国と荷のやり取りをするにはうってつけの通路に見える。

 また、少年の心も同じように踊っていた。

 それは、少年にとって久しぶりの事だった――まるで、自分が伝承の武士そのものになった様な気さえしていた。

 自分に実力が足りない事も、そもそも戦うための勇気が存在しえない事も、その時だけは忘れることが出来た。

 少年は、興奮状態のまま走り出していた。

 しばらくの間、長く簡素なその空間を満たしたのは、少年の荒い息遣いと小太刀が廊下を擦る音だけとなった。

 

 薄暗い廊下を突き当たると、入口と同じように広々とした空間に出た。

 ただ、入口よりも湿度は更に高く、逆に温度は低く感じる。

 少年は久々に感じる汗の感触と、痛む肺の感覚を噛み締めながら、膝に手をついて間欠的に呼吸をしていた。

 目の前にある上の見えない急な階段から吹き込んで来る風が、少年を撫でて過ぎ去っていく。

 その度に体温が奪われ、次第に汗も流れるのを止めた。

 ただ、少年の呼吸が整うことは無い。心臓が高波打つのは止められない。

 試しに呼吸を止めてみたり、深呼吸してみたりしたところで、無駄だった。

 呼吸器官系の病気は悪化しているかのように思えるが、少年にとってこれ以上状況が悪化することは無い。

 気がつくと少年は歩き出していた。

 階段に乗せた足は、小刻みに震えていた。

 常人ならば……同じ年頃の少年ならば――あるいは同じく病気を患う一般の男性ですらその場で倒れ、泣き崩れる程の苦痛かもしれない。

 少年の足がどうして動くのか、自身でも分かっていないようだった。

 事実、少年は泣いていたし、心なんてとっくの昔に折れていた。

 幸か不幸か。

 少年にとって、そんな事は今に始まった事では無かった。

 

 半ば這いずるような形で階段を登りきると、そこは見覚えのない森の中だった。

 暗闇の中で一寸先の草木が数本見えた。それ以上、ほかの情報は何もない。

 涼し気な風が音を立てながら流れていたのも、これで納得がいった。

 階段を中央に、右に舗装された道、左にはけもの道と分かれていた。

 それはまるで、誰かが駆けた後をそのまま利用したような、真っすぐな道だ。

 少年は半死人状態で左右を見渡すが、半分以上落ちた目で何かを見つけたのか、獣道の方をゆらゆらと進んでいく。

 けもの道をよく見てみると、そこには足跡が三人分。

 重そうな武器を引きずって歩いた跡が残されていた。

 

 それからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。

 陽が昇り、木々の隙間から刺す無数の光の刃が、少年とけもの道を照らしていた。

 周囲の景色が開け、現在少年が何処に居るのか、その状況だけは知ることが出来た。

 蔦や苔のこびりついた古臭い老木が乱立し、鬱蒼とした草々が揺れ動き、視界を阻害している。

 その森の名前はメナスス。

 村と国とを隔絶する、巨大な森だった。

 そして、少年が追って来た痕跡は、延々と続いている。

 短時間でどこまで進んだのか。少年が階段を登り切った時には、今少年がいる場所を過ぎていたのだろうか。

 そうだとすれば、かなりの覚悟だと知れる。

 小太りの少年もまた、誰かに認められたかったのだろうか。

 「…………僕は、何してんだ」

 少年がようやく立ち止まると、小太刀の先が地面に落ちて音をたてる。

 「あんな奴。助けた所で――」

 そこまで言って、口を噤んだ。

 下唇を血が出るまで噛み締めた。

 口内に鉄のような苦みが広がる。

 元より、目的の分からない短い旅路だった筈なのに、ここに来て尚、その理由を求めていた。

少年は、誰かに認められたいだけなのだろうか。その為に、大嫌いな人間を救うのは、本当に自分の意思なのだろうか。

 誰の為に――何のために――

 少年は、自分が分からなくなっていた。

 しばらくそうして過ごし、それが無駄な時間だと気がついた少年は、頭を振ってため息を吐き、再び歩き出した。

 その時だった。

 「――誰か! 助けっ――」

 消え入るような男の子の悲鳴と、この世のモノとは思えない化け物の咆哮が森端まで轟いた。

 少年は身震いし、足を止めた。

 小刻みに震える足はしばらく止まりそうもない。

 その場で縮こまり、小太刀を胸中に抱え込んだ。

 小太刀は、時折響き渡る咆哮に共振して熱を帯びていた。

 その不思議な現象にも気がつかない程、少年は動揺していた。

 まぶたを力強く閉じ、更に強く抱きしめた。

 外から入ってくる物音が大きくなったが聞こえないふりをして、伝承の武士を思い返していた。

 こんな時、あの武士なら走り出していたのだろうか。ドラゴンを倒して、少年を助けるために? 仮にその少年が嫌いなヤツだった場合はどうするのか? 相手が自分より悠に強い場合は? 敵わないと分かって尚、助けに行くのだろうか?

 ……無限に湧いて来る疑問は、直ぐに自分へと向けられる。

 「……僕は、何しに来たんだ。あの戦士たちがあんな姿になるまでボコボコにされた相手だぞ……僕なんかが敵う訳無いんだ……村で引きこもってればよかったんだ……出しゃばるんじゃなかった」

 そして皮肉へと変わったそれは、遂に姿も分からない化け物へと向けられる。

「どうして化け物はあんな事をしたんだ……人を襲うヤツなんて、あんな姿になるまで攻撃を続けるヤツなんて……危険すぎる……誰か、殺してくれ…………僕を、助けてくれ」

少年はお母さんの言葉を思い返した。

『あの子なら大丈夫……私は、信じているわ』

「僕なんかを信じるな……僕はまだ、子供なんだ……助けてくれよ、お母さん」

『私は私のやるべき事をやるわ。だから――あの子も、あの子で自分がすべきことを分かっていると、信じているわ』

 「僕は、何をすればいいんだ……僕なんかに、何ができるっていうんだ……」

 精々、化け物の小腹を満たすのが関の山だ。

 少年は悲観的になり、全てに絶望していた。

 逃げることも、戦う事も出来ず、只、小さくなって震えていた。

 姿も見えない何かに、怯え続けている。

 だが、それも許されない状況になっていることに、少年は遅れて気がつくことになった。

 「――っ!」

 小太刀が一気に温度を上げ、少年はそれを手放した。

 尻もちをついて後ろに倒れると同時に、自分を大きな影が覆っている事に気づいた。

 森を疾走していた風が止み、生暖かくも独特の臭いを持つ空気が少年に襲い掛かっている。

 少年は地面をのたうち回る小太刀から、影の正体へと視線を移した。

 「グルルゥ――」

 巨大な何かが少年を見下ろしている。

 だが、あまりの近さにその正体は掴めない。

 ただ。

 ポツリ――ポツリ――

 赤く生臭い液体が少年の顔に滴り落ちてきている。

 化け物が口に咥えた小太りの少年が、生気なくだらりとしている。

呆気に取られて動けない少年は、その色の無い瞳と目を合わせてしまう。

微かに微振動している瞳からは、絶望と恐怖と苦痛、そしてまだ救えるという可能性を感じ取れる。

少年は呼吸も忘れ、自分がこれからどうするべきかを考える。

だが、その考えも纏まらない内に、遂に化け物は正体を現した。

小太りの少年を草むらへと投げ放し、改めて正面を捉える。

鋭い金色目の中に、怯えた表情の自分自身が住み着いていた。

傷だらけになった深紅の鱗がカタカタと音を鳴らしながら震えている。

 口から漏れ出す赤橙色の炎は傷口を抉る様に熱く照り付け、顔に付いた血が皮膚を剥いで蒸発していく。

 ……伝承で感じたドラゴンの姿そのものだった。

 全てを憎む視線が一点に注がれる。

 「なんだこれ……こんなのが、僕の最期なのか」

 少年は死を目の前にして遂に何も感じなくなってしまった。

走馬灯に成り得る記憶も無く、これと言って失うものも無く、窮地に立たされて自分が何に怯えているのかも分からなくなっていた。

「食べられるのって、痛いのか?」

少年の誰に向けられたでも無い問いに答えるのはドラゴンの唸りだけ。

そもそも、食べる側のドラゴンに理解できる訳ない。

「お前は何に怒っているんだ? それとも――」

ドラゴンは脚を後ろに、大きく身を引いて飛び上がる。

「怯えているのか?」

少年の問いに答えるように、ドラゴンは巨大な翼を広げて、耳を劈くような咆哮を飛ばして来る。

一本一本が少年よりも大きな爪を持ち巨人をも包み込む半月状の翼は威圧的で、飛び上がったことで露わになった脚は巨体を支えるために備えられた隆々とした筋肉と爪が前に飛び出し、殺気で満ちている。

バランスを取るための尻尾は胴体よりも長く、そして太い。隅から隅まで生えた棘と鱗が揺れ動き、地面を打ち鳴らしていた。

棒切れもまともに振れない少年に勝ち目があるとは思えない。

ただ、少年は気がついていた。

膨れ上がった胴体の腹部に鱗は無く柔らかそうで、大きな一線の傷跡が残されている。


――ドラゴンはメナススの守護者と呼ばれていた。
















第四章 護るものたち

 

 少年は震える刀を抱えて走り出していた。

 周囲の音が消え、燃え上がるような体温と血の味だけを感じながら、けもの道を外れて森の中をひたすらに走っている。

 背後で聞こえていた筈のドラゴンの唸り声は聞こえなくなっていた。

 少年が逃げている内に分かった事だが、ドラゴンはあくまでメナススを破壊しないように動き回っている様に感じた。

 木々を倒さず燃やさないために炎を吐くことは無く、現在は少年を追いながらも遥か上空を飛んでいた。

 ――村の方へ逃げる訳にはいかない。

 助けを求めて逃げ込めば、どうなるかは考えなくても分かった。

 今は自分を追いかけてきていると、それが分かっているからこそ、少年は時折上空を眺めつつ村からなるべく遠ざかる様にして必死に走った。

 少しでも立ち止まればドラゴンはメナススを最小限の被害に抑えながら襲い掛かってくるのが分かっている。

 どうせ死ぬ運命だと覚悟を決めたからこそ、ここまで動けている。

 ちょっとでも弱気が顔を見せれば、ドラゴンに襲われる前に勝手に死んでしまう事は、少年が一番理解していた。

 

 陽が頭上に迫って来た頃。

 少年はようやく足を止めた。

 今までの人生を含めても、初めての消耗量だからか、立ち止まる事も出来ずに仰向けに寝転がって目を瞑った。

 荒げた呼吸は不規則且つ激しく、整う事を諦めていた。

 心臓は早鐘を打ち、肋骨を押し上げている。

 口から溢れ出る血は止まる事は無く、周囲の地面を鮮血に染めていく。

 そうしていると、背中一杯に波が壁を打つ僅かな揺れを感じ取った。

 少年は目を開き、晴天の空を見つめた。

 今、自分が窮地に立たされている事を、お母さんは知っているのだろうか。

 それでも尚、すべきことをしろと、そう言うのだろうか。

 ボーっとしていると、琥珀色の光源に影がかかった。

 逆光に晒され、ドラゴンの形をした影が大きくなっていく。

 少年は自分の体に鞭を打ち、胸に転がっている小太刀を左手で握りしめた。

 死ぬ前に一矢報いたい。

 だが、それ以上に――

 少年は自身のお母さんを思い出し、自分でも驚いていた。

 でも、死ぬ前くらい素直になろうと、それが自分の素直な気持ちの筈だと、思い込むことにした。

 「お母さんを、殺させない」

 あのまま少年が行くけもの道で行く手を阻まなければ、ドラゴンは村へと行っていたかもしれない。

 村を――襲っていたのかもしれない。

 そう思うと、目の奥がジンジンと痛んだ。

 上がり切ったと思っていた体温が更に上昇していく。

 ――呼吸が、整っていく。溢れ出る血が、止まっていく。

 少年はひっくり返り、足と手を地面に付いた。

 その状態で力を懸命に込めると、何とか立ち上がることが出来た。

 左手に構えた刀の鵐目の上に右手を乗せた。

 視界は狭い。体も中途半端に曲がっている。

 そんな状態の少年を睨みつけながら、ドラゴンは地面に降り立った。

 激しい地鳴りと、さらに怒りを増したうめき声が、小さくなった少年に降りかかる。

 少年は左足を後ろに、抜刀の構えを取った。

 自分が小太刀を振るえた試しは無いが、やってみるしかない。

 少年は目を見開いてドラゴンを睨み返す。

 すると、目の奥が更に痛んだ。それと同時に、刀との繋がりを感じ取る。

 次第にその繋がりが燃え上がり、手から伝わって心臓へと燃え移った。そう感じる程に体温は上昇し、周囲の空気を揺らしていた。

 陽炎がかったドラゴンの輪郭が揺れている。

 ただ、それよりも温度が高い赤橙色の炎が口の端や鱗の隙間から溢れ出し始めた頃には、陽炎は飲み込まれ始めていた。

 ドラゴンは大きな口を開く。

 溢れ出した炎がフレアとなりドラゴンの鱗を伝って口内に集中していく。

 それは次第に火球となり、肥大化していく。

 ――少年はそれを見て、無意識に小太刀の鍔を親指で押し上げた。

 すると、驚くべき現象が起きていた。

 刀身が赤白く輝きを発していたのだ。

ただ、文字が掘られている部分だけは鮮明に見ることが出来た。

『鉄刀:緋』

それは、刀の名前なのだろう。

少年は改めてドラゴンの方を見る。

肥大化していた筈の火球はみるみる縮小していき、その色を蒼に変えていた。

蒼火球とでも言おうか。

それは周囲の全てを巻き込んで燃え尽きるが如く、力の逃げ場を求めて激しく弾けていた。

 そして――ドラゴンが口を閉じると口端がキラリと輝きを増し真っ白な空間を作り出した。

そしてその空間では、周囲の音は消し飛んでしまう。

ドラゴンが口を再び開き、蒼火球を吐き出す――

少年が前に走りながら刀を抜く――

 音も無く、色も無い景色に、二人だけが存在していた。

 少年が迫りくる蒼火球を真っ二つに切り裂く――

 少年がその間を駆けると、背後でそれは蒼炎を吐きだして破裂し、少年の背中を焼いた――

 少年は前方へ吹き飛ぶが、それを利用して加速すると、ドラゴンの腹の下へと滑り込んだ――

 そして――

 ドラゴンの腹部を切り裂きながら、白い空間をも切断した。

 周囲の音が、景色が、真空管を開けた時のように一瞬にして押し寄せてくる。

 背後で、ドラゴンが倒れる音が聞こえる。

 血が噴水の様に噴き出し、少年の視界を覆い隠した。

 きっと、崖の周囲は血で塗れているのだろう。

 少年は小太刀を鞘にしまう。

 全てが終わったみたいに心が楽になり、同時に全身の力が抜けた。

 全ての力を足裏に込め、首だけで振り返る。

 少年のまぶたが、瞳孔が、限界まで見開かれる。

 手前で苦しそうに悶える巨大なドラゴンが――その奥には、黄金色に輝く卵が一つ、割れた状態で転がっていた。

 その周囲に、少年が顔も知っている戦士たちが血にまみれて倒れていた。

 「――ドラゴンは、大切なモノを護ろうとしただけなんだ」

 少年は、恐怖で尻もちをついていた。

 ドラゴンが戦っていた道理は、自分のそれと何の変りも無い。

 なのに、少年は――伝承の武士は――。


――過去、少年自身が感じることの出来なかった妙な親近感。

彼は、伝承の武士の一人息子だった。

同じ境遇に立つ彼もまた同じように。

村へ姿を現すことは無かった。

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