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ミステリはナポリタンの香りがした

作者: 九重ツクモ

 ああ、眠い。腹が減った。

 空腹と睡眠不足でふらふらな体を引きずって、俺は大学から駅までの道のりを歩いていた。

 昨夜は食事をする時間まで犠牲にし、徹夜で経済学のレポートを仕上げて、どうにか昼の期限までに提出できた。

 これでどうにか留年は免れただろう。

 地方から上京して二年。

 ようやくこの街にも慣れてきた。

 と言っても、元々内気で口下手な性格が災いし、高校の頃に思い描いていた、理想のキャンパスライフとは無縁の生活だ。

 サークルに入ってみれば何か変わるかとも思ったけれど、俺には荷が重すぎる陽キャサークルか、さすがにこの仲間に入ってはまずいというド陰キャサークルしか存在しなかった。

 もう少し中間の、ちょうどいいサークルがあるべきではないのか。

 そんな義憤にも似た憤りを覚えてみても、自分でサークルを立ち上げるほどの行動力は持っていない。

 結局、彼女どころか親しい友人もできないまま、バイトと趣味に明け暮れている。


 俺の趣味は、推理小説を書くことだ。

 高校の頃からいくつか公募に出してはいるけれど、全くと言っていいほど芽が出る気配はない。

 それでも、学生という気楽な身分もあって、まだやめるつもりはない。

 来年度になれば就活が始まるという事実には、そっと気付かないふりをしている。

 とにもかくにも、授業が終われば逃げる様にバイトに駆け込み、それが終わればすぐにパソコンに向かって執筆する。

 それが俺の毎日だ。

 大学生らしい青春など欠片もない。

 更に最近覚えた酒と煙草が加わって、気付けば立派な文豪コスプレ野郎になっていた。

 自分でそうだと自覚しているだけ、まだましだと言い聞かせている。


 睡眠欲と食欲のどちらを優先させようかと思案して、とりあえずは腹の虫を鳴き止ませようと決める。

 ラーメンか牛丼でもと思いながら、道沿いの店を物色する。大学の最寄りということもあり、飲食店が多いのはいいのだが、優柔不断な俺にはなかなかに酷だ。

 急いで引っかけてきた黒いMA-1は、安物なだけあってあまり防寒の役割を果たしてくれない。

 早くどこかに入りたいと思いつつ、目移りしていると、一軒の喫茶店が目に留まった。

 レンガ造りの柱に昭和っぽい出窓、変色しかけている食品サンプルという、レトロな純喫茶の見本のような佇まいだ。

 こんな店、前からあっただろうか。

 いかにも物語が生まれそうな、なんとも心くすぐられる店である。

 何より惹かれるのは、店の前に出された黒板の看板。

 そこに書かれた「今日のランチ:ナポリタン」と「喫煙できます」の文字だ。

 ナポリタンなど、もう何年も食べていない。

 けれど実家に居た頃は、母がよく作ってくれていた。

 それこそ、子どもの時分には好物だったと言えるだろう。

 そう思い返すと、俺の腹がぐうと鳴った。

 腹も既にナポリタンに決めたようだ。

 こういった店はいささか入るのに躊躇するが、寝不足で頭が上手く回らないせいだろうか。まるで吸い込まれるように、店の扉を開いたのだった。


 からんからん、というベルの音と共に足を踏み入れると、案外店内は混んでいた。

 四人掛けのテーブル席が三つ、二人掛けのテーブルが四つを少々強引に押し込んだ様な広さだ。

 カウンター席も三席、あるにはある。

 だがそこは、常連と思しき年配の男性が、我が物顔で新聞を広げながら煙草をふかしており、並んで座る勇気は起きなかった。

「お好きな席にどうぞ」と店員に言われ、俺はカウンター席の後ろの二人掛け席を選んだ。

 所々穴の空いた革張りの椅子に荷物を置き、壁側のソファーに腰を下ろす。

 元は触り心地が良かったであろう臙脂色のビロードのソファーにも、あちこち穴が空いている。

 きっと客が、煙草の灰を落としたのだろう。

 古めかしいが、それでいて妙に腰に馴染み、座り心地のいいソファーだった。

 予定通りナポリタンのランチセットを注文して、煙草をくゆらす。

 なかなかいい店を見つけた。俺は既にかなり満足していた。


 からんからん。

 ベルの音に顔を向けると、女が二人、店に入ってきた。

 俺よりもいくつか上だろうか。

 一人は派手な美人だ。

 明るめの髪を綺麗に巻き、白いノーカラーコートを着ている。靴は濃茶のブーツだ。

 銀座辺りに居そうな出で立ちだ。

 こういうタイプの女性は、純喫茶よりもおしゃれなカフェに居そうなものだが。

 もう一人は、言ってみれば地味な女だった。

 ストレートの黒髪に黒いチェスターコート、グレーのパンツはウールだろうか。白いスニーカーを履いている。

 タイプが違う二人だが、雰囲気は気安い。

 様子からして、姉妹ではなく友人だろう。


 いけない。また悪い癖が出た。

 小説のネタにする為に、人間観察をするのが癖になっている。

 一度、友人……というほど親しくはない奴に「お前はじっと人のことを見過ぎるきらいがあるね」と言われてから、もう止めようと思っていたのに。

 タイミングよく運ばれてきたナポリタンに、意識を移す。

 いい香りだ。これなら味も期待できるだろう。

 そう思っていると、二人は俺の左隣の席に座った。しかもよりによって、美人がソファー側である。

 見渡せば、確かにもうこの席しか空いていない。

 二人掛けではあるけれど、この店のテーブルを二人で使うには、少しばかり窮屈そうに見える。

 どうにも気まずく、意識的に二人を視界から追い出して、目の前のナポリタンに集中することにした。

 フォークでくるくるとスパゲッティを巻いていく。

 ナポリタンに関しては、パスタよりもスパゲッティと呼びたくなるのは何故だろう。

 一口食べると、ケチャップの香りが口いっぱいに広がった。

 タバスコが入っているのだろうか。わずかな酸味と辛みがアクセントになって、実に美味い。

 ウインナーやピーマン、たまねぎもちょうどいい炒まり加減だ。

 この店は本当に当たりだ。これは通ってしまうかもしれない。

 空腹も相まって、夢中でフォークを口に運び、あっという間に食べ終わる。

 幸福感がすごい。絶対に通おう。

 俺は一度立ち上がり、向かいの席に置いた鞄から煙草とノートを取り出した。

 今のこの気分なら、何だかいいネタが思いつきそうだ。


「それで、アオトと連絡が付かないって?」

「そうなの、もう三日目。でも……昨日、これが届いた」


 ノートと煙草を手にソファーに戻ろうとしたところで、隣の女性たちの話が耳に入った。

 なんとなく気になり、そっと目をやると、派手な美人の方が鞄から手紙を取り出したところだった。

 この時代に手紙とは、何とも古風だ。

 かくいう俺も手紙は嫌いじゃないが、何せ出す相手がいない。

 アオトという人物が誰かは分からないが、名前の雰囲気からして、彼女たちと同年代の男性だろうと想像する。美人の彼氏だろうか。

 だとしたら、ずいぶんと良い趣味の持ち主だ。


「手紙ってなんなのよ! 相変わらずLIMEは未読無視だし、電話も繋がらないし。それでこれだよ!? ほんと馬鹿にしてる!」


 美人は憤慨して、ミルクティーをスプーンでかき混ぜながら、やけに細い煙草を赤い唇で咥えた。

 なるほど、煙草が吸いたいからこの店に入ったのか。

 それにしても、話を聞くに、どうやらアオトは普段から手紙を書くような人物ではなかったようだ。

 それが、音信不通になったと思った途端、いきなり手紙を送って来た。

 なんとも不可解だ。

 俺はソファーに座りなおすと、ノートを留めているゴムバンドを外した。

 ゴムバンドに挟んで、ペンも一緒に持ち歩いているのだ。こすると摩擦熱で消えるペンは重宝している。

 何か思いついた時、俺はいつもこのノートにメモをしている。スマホでもいいが、手書きの方が早い。

 どうにもネタになりそうな気配がする。

 俺はノートを開き、「音信不通の彼氏から届いた一通の手紙」と書きつけた。


「あいつ、手紙なんか書くんだ」

「初めてだよこんなの! しかもなんかポエムできもいし!」

「『付き合い始めたあの日からすれ違ってた。深く考えないようにしてた。気付かないふりをしてた。けど間違いだった』なにこれ」


 地味な方の女が手紙を読み上げ、鼻で笑いながら美人に手紙を返した。

 ちらりと見えた手紙の文面は、案外長い。読み上げたのは冒頭部分のようだ。

「付き合い始めた時から」ということは、やはり美人とアオトは恋人なのだろう。


「訳わかんないでしょ! しかも『本物の愛を求め探す旅に出る』とか、意味不明! つまり、私と別れて別の女を探しに行くってこと!?」

「まあ……元々ふらふらしてる奴だしね」

「最後の『美しかったレミ、さようなら』っていうの、要は私が年を取って綺麗じゃなくなったから別れるってことでしょ!? 酷い! 酷いよ!」

「レミ……泣かないで。もうそんな奴のこと、忘れなよ」


 美人――どうやらレミというらしい――は、ぽろぽろと涙を流し始めた。

 年を取ったというほどの年齢じゃなかろうに、アオトとはそんなに前からの付き合いなのだろうか。

 地味な女の方も、アオトのことを前から知っているようだ。

 思わず俺は、ノートに二人の特徴と関係性を書き綴っていた。


「分かるよ。アオトは両親が小さい頃に離婚してんじゃん。それでお母さん一人で無理して、早くに亡くなってさ。だから、自分はそんな風になりたくないって、ずっと言ってたし。……私とは、そうなっちゃうって、思ったってことだよね。最初からすれ違ってたって書いてあるし。私は……そんな風に思ってなかったのに」

「アオトの理想が高すぎるってことだよ。レミで合わないんだったら、誰もアオトに合わないって。もう忘れよ。ここ、私おごるし」


 地味な女がレミを慰めるように手を握った。

 なるほど、アオトは少し複雑な家庭環境のようだ。

 ノートに書いた「手紙の主:アオト」の項目に、情報を追加していく。


「ありがと……。でも、やっぱりわたし納得できない。この手紙、なんか変だよ。唐突に『heure(ウール)』ってフランス語出てくるし。あ、heureは時間って意味ね」

「レミ、二外フランス語だったんだっけ」

「そう。アオトも」


 二外、つまり第二外国語。レミとアオトは大学が一緒だった、もしくは現在進行形でそうらしい。

 話しぶりから、地味な方の女もそうなのではないかと思えた。

 ノートに書いた関係図をまた更新していく。

 それにしても、あまりに手紙の内容が気になりすぎる。いけないとは思いながら、好奇心が抑えられない。

 俺はスマホのカメラを立ち上げ、こっそりと手紙に向けた。

 さもネットサーフィンをしている風を装って、画面をピンチで拡大する。

 すると、どうにか文字が判別することができた。

 俺は痛む良心に蓋をして、左手にスマホを持ったまま、夢中でノートに文面を書きつけた。


『付き合い始めた

 あの日から

 すれ違ってた。

 深く考えないようにしてた。

 気付かないふりをしてた。けど間違いだった。

 返事はいらない。

 手紙もいらない。

 永遠になくならないと

 百年続くんだと思った愛も

 嘘だった。

 なんと言ってくれてもいい。

 いい思い出もあるけど、

 ここでもう、

 終わりにしよう。

 両親のようにはなりたくないんだ。

 本物の愛を求め

 探す旅に出る。

 愛はきっと

 劣化することのない

 heure(時間)とは関係ないものだから。

 連絡はこれで最後にする。

 美しかった怜美、さようなら。』


 すべて書き終えて、ペンを置く。

 確かに、妙な手紙だ。意味は通っているけれど、ずいぶんと詩的である。

 恋人と別れた後、男が自分に酔ってポエムのようなメールを送ることがあるというが、これもその類なのだろうか。


「もしかして、何か暗号とかが隠されてるんじゃないかと思って考えたんだけど……」

「なんで? なんのために?」

「分かんない。分かんないけど……! それに考えても、何も暗号なんて出てこなかったし……」

「だよね。私も考えたけど、何もなさそうだったよ」


 暗号。暗号か。ミステリの定番だ。

 俺もいくつも暗号を考えてきた。まあ、大したやつは思い浮かばなかったけど。

 この文章は、改行が特徴的だ。

 これだけ改行しているのだから、「気付かないふりをしてた。けど間違いだった。」は、「けど」のところで改行するべきだろう。

 こういった場合、一番最初に考えられるのは、縦読みだ。

 試しに縦に読んでみる。

『つあすふきへてえひうないこおりおさあれhれう』

 うん、まったくの意味不明だ。

 漢字のままで繋げても意味を成さない。

 特に意味はないのだろうか?

 それに、やはり気になるのはこの『heure』 だ。

 二人の間でよく使う言葉というならまだ分かるが、どうやらそうでもないようだし、急にアルファベットを出す意味が分からない。

 試しに、最初の文字をローマ字にしてみる。

『TSU

 A

 SU

 FU

 KI

 HE

 TE

 E

 HYA

 U

 NA

 I

 KO

 O

 RYO

 HO

 SA

 A

 RE

 HEURE

 RE

 U』

 やっぱり意味が通らない。

 そもそも、何故英語でなくフランス語なんだ。

 ……いや、むしろそれに意味があるのだとすれば。

 これがフランス語でなければならないとしたら、そこにはどんな意味があるだろう。

 俺も第二外国語はフランス語だ。

 フランス語は日本人でも発音しやすいと聞いたことがあったから選んだだけで、特に深い意味はなかった。

 結局、大して身に付いてはいない。まあ第二外国語なんてそんなものだろう。

 そもそも今回の『heure』のように、冒頭のhは発音しないとかリエゾンするとか、そういうややこしいことは……。

 徒然に思考を巡らせていると、ふと、引っ掛かりを覚える。

 なんだ。俺は何に気が付いたんだ。

 そう、フランス語は基本、冒頭にあるhを発音しない。

 hotel(ホテル)もフランス語では、「オテル」と発音する。

 もし、この『heure』が暗号を解くヒントとして置かれたのだとしたら。


 俺はまるで取り憑かれた様に、ペンを走らせた。

 先ほどのローマ字を、フランス語の法則に則ってHを消し、二文字目に丸をする。

「FU」を「HU」と置き換えて、頭のアルファベットだけを読めば。

『T

 A

 S

 U

 K

 E

 T

 E

 Y

 U

 N

 I

 K

 O

 R

 O

 S

 A

 R

 E

 R

 U』


『助けて、ユウに殺される』。


 ぽろり。

 俺は思わず、ペンを落とした。


 ユウという人物に監禁されたアオト。

 助けを呼ばないようスマホは取り上げられ、失踪したことを誤魔化すために、恋人への手紙を書かせられる。

 そこにアオトは一縷の望みをかけて、暗号を仕込んだ。

 一緒にフランス語の授業を受けた怜美が、気付いてくれることを信じて——。


 こんなの、俺の妄想だ。

 そんな事実は全くなくて、ただの偶然かもしれない。

 けれど、本当に偶然なのだろうか。

 ここまでの偶然が、有り得るのか。


「やっぱり、考えすぎだよね。あいつそんな頭良くないし」

「そうだよ。気にしすぎ。自分勝手なアオトのことなんて忘れなよ。怜美は美人なんだから、もっといい人がいるって」

「そうだよね。相談に乗ってくれてありがとう、ユウ」


 な、に……?

 今、怜美は何と言ったのか。

 そう言えば先ほど、地味な女が言った言葉に違和感を覚えたのだ。

 手紙が暗号ではないかと疑う怜美に言った言葉。

『私も考えたけど、何もなさそうだったよ』

 あの言葉は、今この場で考えたというよりも、前から考えていたように聞こえないか。

 彼女は、あの手紙を見るのが、初めてではないのではないか。


『助けて、ユウに殺される』


 ユウとは、まさか。


「もう行こう。気分転換に、ショッピング付き合って」

「いいよ。私も欲しいものあるし」

「そうなんだ。何が欲しいの?」

「えっとね、鉈とかキャリーカートとか。キャンプ始めようと思って」

「えーキャンプするなら、まずテントからじゃないの?」


 二人が談笑しながら、席を立つ。

 どうすればいい。追いかけるべきか。

 警察に電話をするべきか。

 勝手に覗き見た手紙に、それらしいメッセージを見つけたなんて、なんと説明すればいい。

 俺は、一体どうしたら——。


 冬だというのに、滝のように噴き出す汗を拭って、俺はぎゅっと目をつぶる。

 そして一つ深呼吸をすると、意を決して、立ち上がった。


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