懐かしくも穏やかな日々(後)
とある休日の早朝、ユウは二の刻の鐘の音と共に起き上がると手拭いを持って宿を出た。目的地は境界の川だ。まだ薄暗い中、他の冒険者や労働者が往来する貧者の道を歩き、河原へと下りる。
川縁までやって来たユウは服を脱ぐと鍛錬を始めた。前に服を乾かしている間に鍛錬したときに、全裸で体を動かして川で汗を流せば夏でもさっぱりできることに気付いたのだ。しかも脱いだ衣服は汗で汚れないので洗う必要もない。
最初は全裸で体を動かすことに目覚めたわけではないと自分に言い訳していたユウだったが、そのうち気にならなくなった。汗をかいた後に川へ入って幸せな気分にひたる。
火照った体を冷やしたユウは河原へと戻ると持ってきた手拭いで体を拭く。この頃になると空が一気に明るくなった。
服を着たユウはそのまま宿へと折り返す。部屋に戻るとトリスタンが寝台に座って黒パンを食べていた。その相棒に声をかける。
「おはよう。今日も出かけるの?」
「出るぞ。ユウも出かけるのか?」
「僕は今日ずっとこの部屋にいるよ。昨日羊皮紙をまとめて買ったから、記録の続きを書くんだ。しばらく書いていなかったからね」
「この暑い中、部屋に閉じこもる気なのか? 暑さで倒れるぞ」
「窓と扉を開けっぱなしにするから平気だよ。こうすれば風の通り道ができるから涼しくなるんだ」
「冬だと吹き抜けは寒いだけだが、夏だと逆に涼しいわけか。なるほどな」
物を食べつつ会話を続けるトリスタンが口を動かしながら感心した。逆転の発想だなと付け加える。
自分の背嚢を取り出したユウは朝食である干し肉と黒パンを取り出した。トリスタンの隣に座ると自分も食べ始める。
「ところで、探していた賭場は見つかったのかな?」
「一応見つけた。でも、あそこは行けたもんじゃないから、最初の1回で止めたよ」
「行けたもんじゃない? 何があったの?」
「イカサマだよ。胴元が平気でしやがるんだ」
「そんなことしたら、賭け事が成立しなくなるでしょ」
「胴元がするから成立するんだよ。いや、成立させると言った方が正しいのか。ともかく、場によっては露骨なこともあるからすぐに荒れるんだよな」
「揉め事になるってことだよね。怖いなぁ」
「まったくだ。1度なんて同じ場で喧嘩が始まったから、たまったものじゃなかったよ。すぐに用心棒に捕らえられて運ばれていったけれど」
「でも、この辺で賭場って、どこにあるの?」
「貧民街の中だったな。安酒場街から貧民街に入って、すぐ東に進むんだ。そうしたらぼろい建物のひとつがそうだったよ」
「あんなところに賭場なんてあったんだ」
「東に歩いている途中でぼろいなりに最近建てられたかのような掘っ立て小屋に変わったから、案外新しくできたんじゃないのか?」
昔からあるわけではないという推測を伝えられたユウはなるほどと思った。ここ数年で人が増えたということは何人かから耳にしていたので、貧民街が大きくなっている可能性が高い。またひとつ、変わっていそうな場所を知った。
常に変化する街並みに思いを馳せたユウだったが、もうひとつ疑問を思い付く。
「トリスタン、そういえば娼婦って買ったの?」
「買っていない。あれはちょっとさすがにな。獣人の町の娼館に行ったときのことを思い出して手が出せなかった」
「そんなにひどかったの?」
「前にユウが近所のおばさんなんかがやっているって言っていただろう? そのおばさんとできるか?」
指摘されたユウはかつて近所に住んでいた女性を思い返した。娼婦として魅力的なのかと問われると黙るしかない。
口を閉じて真顔になったユウを見たトリスタンが力なく笑う。
「そういうことだ。貧民街の娼婦はちょっと俺には合わないな」
「それじゃどうするの?」
「これからもあっちこっちで探すとして、今は町の中の娼館を利用しようかと考えている」
「ええ? でも、入場料で銀貨1枚も取られるんだよ?」
「わかっているよ、そんなことは。でも、現状だと貧民街で娼婦を買えないんだから仕方ないだろう?」
「仕方ないのかどうかわからないけれど、まぁ、他に方法がないんだったら」
「ということで、今晩早速行ってくる」
「行動が早いね」
「迷う理由もないからな。それに、この町に着いた初日に町の中をぐるっと一巡りしただろう。あのときに娼館もざっと見たから大丈夫だと思うんだ」
「ああやって見ただけでわかるんだ」
「何となくだけれどな。少なくとも、こっちよりかはましなのは間違いない」
「そりゃ貧民街よりかはましだろうけれど、外れは引かないようにね」
「そこは大丈夫さ。選ぶときに見たら一発だ」
やたらと自信満々な言葉が返ってきたことでユウは黙った。よく娼館に通っているのは知っているのである程度の目利きはできるのだろうと考える。
やがて朝食を食べ終わったトリスタンは立ち上がると部屋を出て行った。
部屋に1人きりになった後、ユウは開けっぱなしの木製の窓に続いて扉も少しだけ開けて完全に閉じないよう固定した。そうして室内の暑くなりがちな空気を換気する。
緩やかなそよ風を感じながらユウは机の上に羊皮紙とペンとインクを取り出した。自伝もどきの執筆の再開である。
前回はどの辺りまで書いたのかと首を傾げながら、前に書いた羊皮紙をぱらぱらと読み返した。すると、ちょうど帰らずの森の手前で終わっている。
区切りが良いところから再開できることに少し機嫌を良くしたユウはペンをインクにひたしてから羊皮紙に文字を綴っていった。かつてあったことを思い返して懐かしく思う。
ほぼ5年前のことなのに割と覚えていたのでペンはあまり止まらない。よく考えたらそれ以前は10年以上前のことを思い返しながら書いていたのだから、現在により近いときのことを書いている今なら思い出せて当然だと考え直す。
調子良く書けているときは時間の流れが速い。気付けば四の刻の鐘が聞こえてきた。ちょうど一段落ついたところなのでユウはペンを置く。
気晴らしに宿を出たユウは安酒場『泥酔亭』へと足を向けた。昼食はそこで食べることが当たり前になりつつある。
昼時とあって『泥酔亭』の中は混雑していた。それでもいくつかの席は空いており、ユウはその中のひとつであるカウンター席へと座る。
「エラ、いつものちょうだい」
「いつものって言うほどまだ来てないでしょうに。まぁいいわ。昨日のと同じのね」
通りかかったエラに声をかけたユウは目の前のカウンターに向き直った。そうして食事後に何を書くか考える。大筋では決まっているのだが、細かい点はさすがにまだ未定だ。できるだけすぐに書けるように頭の中で書きたいことをまとめておく。
そのうちある程度書きたいことがはっきりとしてきたユウだったが、ここでふと、あとどのくらい書く必要があるのかと思った。これまでの5年間のことを振り返って指折り数え、それの大体の分量を計算する。
「えっと、大筋だけで21、大体ひとつにつき10日だとして全部で210日、え、こんなにあるんだ。ということは7ヵ月半。え、今日から毎日書いても来年の春頃までかかるの!?」
思った以上に書く量が多いことにユウは頭を抱えた。隣に座る客がちらりと怪訝そうな視線を向けるがすぐに興味をなくす。
これは大変なことになったとユウはため息をついた。もっとこまめに書いておけば良かったと後悔する。
「はい、お待ちどおさま。って、何カウンターに突っ伏してんのよ。料理が置けないじゃない」
「ああごめん」
「どうしたの。なんか悩みでもあるの?」
「やることが思ったよりも多くて愕然としていただけだよ。そこまで深刻なことじゃないから」
「ふ~ん、まぁいいわ。頑張ってね!」
ユウの言葉をそのまま受け取ったエラは料理と酒をカウンターに並べるとすぐに別の場所へと向かった。繁忙期の給仕女は忙しいので一箇所に長くは留まっていられないのだ。
料理に手を付けながらユウは更に考える。夜明けの森に行くための準備は昨日で粗方終えていた。なので、残りの休みはすべて自伝もどきの執筆に充てることができる。森での活動が始まるとどうなるかはわからないが、今後は少しずつ書いていった方が良いのは明白だ。そんな気力体力があるのかは怪しいが。
「1ヵ月や2ヵ月休んで集中して書いても全然足りないんだからなぁ。7ヵ月半って、ああ、なんでこんなにあるんだろう」
口に含んだエールを飲み込んだユウは小さくため息をついた。これからの活動も記録の対象になるので放っておくといくらでも書くことは増えていく。のんびりとしている時間など実はなかったのだ。
やることがなくて暇というのとどちらがましなのかユウにはわからない。ただ、できるだけ書こうとは思った。




