9.とりあえず切実に帰って欲しい。とにかく、今すぐに
メラル皇国。帝国が新進気鋭の大国であるならば皇国は遥か昔より大国であり、最古参。ブルガー王国など片手で捻り、マリネラに至れば一睨みで降伏するしか道がないそのような大国。本来ならばあり得ないのだ。なぜ許されたのか。三次帝であるからである。それほどまでに名高い称号として大陸に響き渡っている。なら、なぜ小国マリネラの王族が三次帝と呼ばれるのか。大陸でも零細であり、貧国であったマリネラを安定し豊かに育て上げた賢王イアン。そしてその賢王の子であるセシルは、あらゆる戦いに勝ち続け、少しずつ拡張していく領土。ブルガー王国との婚姻が成立していれば、確実に大国への階段を昇ったであろう。しかしそれが破断しても、なお、そのセシルの溢れる才気に三次帝の名は揺るがない。そして、その才能はついて帝国にまで認められた。
メラル皇国、第一王女とマリネラ国、第一王子の婚約の発表は、世界に衝撃をあたえた。
「あれほど言ったじゃありませんか!」
メルは頑張って怒った。怒り慣れていないからなのだろうか。メル自身もうまく怒れている気がしていない。ただ心配な気持ちは伝えられていると思う。それを察してなのかサラも申し訳なさそうにしている。
「ごめんなさい、メル」
「今度、森に行くときは一緒に行きましょう」
あの森に入った日からサラは1人で村の中以外を出歩くのをやめた。その代わり村をよく散歩する。小さな村であるが人もそれほど多くない。ただその分、距離感が近いのだろう。色んな人と話、作業があれば手伝い、そして時々、子どもたちと遊ぶ日々が続いている。メルはそのように村人と交流するサラが愛おしく好きだった。普通の王女であれば、城から出て、このような田舎の村で村人と暮らすなど考えられないであろう。しかしサラはそのような生活すら楽しんでいる。メルも初めは心配したが杞憂であった。このような生活が長く続けばいいなと不敬ながらそのようなことを願ってしまう。ただ、別に悪いことをしたわけではないのだから、いつかこの生活にも終わりがくる。それが明日なのか明後日なのかそのまた先なのかはわからないが。そのようなことを考えながらいつもどおり新聞を眺めようとする。田舎であるためか随分、情報にタイムラグがあるなといつもメルは感じているが、それでも知らないより知っていた方がよい。外の情報収集もできる限り行っているのである。そして、メルは新聞を手に取り、一面の見出しに衝撃を受けた。
「ただいまー」
サラはいつもどおり、日課を終え寄り道をしながら家に帰ってきた。メルはそんなサラを見るなり立ち上がりサラの方に向かう。
「サラ様、大変ですよ!落ち着いて聞いてくださいね!」
「いや、まずメルが落ち着きましょう。はい、深呼吸」
そうサラに促されて、二度深呼吸をする。焦っていた脳に酸素がいきわたり、少し落ち着いた気がするメル。ただこれが落ち着いていられるかとばかりに、メルの脳はまたフル回転しだす。
「あのですね!セシル様が!」
「まあまあ、落ち着いて、とりあえず席に座りましょう」
サラに促されて、席に座るメル。向かいにほほ笑むサラ。焦った脳が少し冷静さを取り戻した気がする。
「それでどうしたんで―――」
サラが話を始めると乱暴にドアが開いた。視線をやる。メルの頭は沸騰した。いる筈もない人物。サラを衆人の前で罵倒し、このような状況に追いやった張本人。そこにいたのは、タラントであった。
「このような田舎のウサギ小屋に住んでいるとはな。まさに下級」
相変わらず嫌悪感を抱く声でサラを侮辱するタラント。メルは必死に怒りを抑えた。
「タラント様、このようなところにどうなさいましたか?」
メルはできるだけ丁寧に、怒りが漏れないように気を付けながら言葉を選んだ。
「黙れ小娘!貴様のような下賎の民となぜ私が会話をしなければならない。二度と口を開くな!」
物凄い剣幕にたじろぐメル。そのメルの肩をそっと叩き落ち着いてと合図するサラ。そしてサラは静かに口を開いた。
「今日はどのようなご用件で?」
メルを侮辱されたからだろうか。いつものふんわりとした優しい声に少し怒りの色が混じっているのをメルは感じた。
「貴様のような人間でも、一応王女。私がもらってやろう」
尊大な物言いであった。一度、破棄したものを今更、戻せということである。メルはそこでタラントの目的に気づいた。きっと都会ではとっくにあの新聞記事の内容が流布されている。そこでタラントはサラに利用価値を見出したのだ。どこまでもあざとい奴めと心の中で、毒づくメル。こんなこと絶対に認めさせてはならない。このことをすぐにでもサラに伝えなければと思案するも、サラが口を開く。
「うーん、お断りますわ」
誰もが予想外の一言であった。元々、政略結婚である。本人のためでもあるし、小国マリネラのためでもある。そのことをサラが知らないわけもない。それにも関わらずはっきりと断ったのだ。
「な、なんだと貴様!」
怒るタラントを見て、クスっと笑うサラ。
「だって、私ここが気に入っているんですの。ゆったり流れた時間、優しくて気さくな村人、可愛い子どもたち、それにずっと一緒のメル。この生活を今すぐ捨てて、ここを離れたくないわ」
メルは呆気にとられた。確かに見た目は楽しそうであった。ただ心のどこかでサラのことを不憫だと思っていたのだ。このような生活がずっと続けばいいと思っていた反面、早く終わって城に帰った方がサラのためなのではと思っていたのだ。
「そ、そんなことのために!これは国と国との話なんだぞ!」
まさか断られると思っておらずうろたえるタラント。
「あなたに婚約破棄された後にお父様に言われたの。これからは国のことより自分のことを優先して生きなさいと。だから申し訳ありませんが、私は、私のしたいことをします」
凛とした声でハッキリと拒絶するサラ。
「き、貴様!小国の分際で!!!」
激昂するタラント。まずい、なんとしてもサラを守らなければとメルは二人の間には入る。メルは戦う覚悟をした。すると開いているドアがノックされ、三人ともそちらに目をやる。
「昼間なのに、なんだか物騒な状態だね」
1人の男が笑顔でそこに立っていた。
「貴様は!?」
驚くタラント。呆気にとられて声もでないメル。あれはまさか、帝国の……
「あら、カイン!今日はどうされました?」
まるで友達のように、気さくに声を駆け寄るサラ。
「近くまで来たからね。約束どおりまた来たよ」
「まあ、こんな早く来てくれるとは思いませんでしたよ。なら早く行きましょう」
そう言い、目の前にいたタラントを完全に無視し、カインの手を取るサラ。カインは急に手をとられてうろたえているように見えた。
「あ、そうだタラント。いくら女好きだからって他国の村娘に、そんな感じで手を出すのはやめておいた方がいいと思うぞ」
村娘?カインはサラのことを気づいていないのかとメル、タラントとメル、二人の思考が生涯一度だけ一致する。
「カインはタラントのことを知っていらっしゃるのですか?」
「あぁ、昔、少しね」
その会話でサラもカインについて気づいていないことがわかった。この二人は自分たちのことを相手に全く知られていない。いったいどんな関係なんだと考えるメル。そして思い出す、少し前に森に入った話を。あの時の男をサラはカインと呼んでいた。まさかそのカインとはあのカインだったのか。メルの中で納得ができた。当然、全く知らないタラントはなおも、呆気にとられるだけであった。
「じゃあ、行ってくるわね。メル!」
そう言い、カインの手を引き外に出ていくサラ。残された二人は呆然とする。
「タラント様、お帰りになられては?」
冷たく言い放つメルに先ほどの強気はどこえやら、そうだなとだけ呟いてタラントは去っていった。
こうして、タラントの婚約破棄宣言からはじまった一連の騒動がここで終わりを告げる。しかし、サラとメルの二人の生活はもう少し続きそうであった。